説教「点が開け」2017.4.30

2017430日主日礼拝ヨハネ福音書連続講解説教(8)                 
 説教 「天が開け」 牧師 武井恵一 
聖書 ヨハネによる福音書14351
讃美歌(21)21主をほめたたえよ」、397「地よ声高く」、
   520「真実に清く」、8837-4「いと高き神に」

 「春が来た」と感じたら、あっという間に4月が終わっているような感じで、教会の庭は花盛りです。
今年のゴールデンウイークは、土日が休みの仕事だと、最も長い連休とされます。
 今日の説教箇所は、フィリポとナタナエルを弟子にする、エピソード的なところで、この箇所はヨハネによる福音書だけ。共観福音書にありません。
 フィリポは共観福音書に出てくる十二弟子の一人で、使徒言行録836節から40節まで、天使に命じられてエチオピアの宦官に洗礼を施す長い記事がある。(新約2289頁)。
 一方、ナタナエルはヨハネによる福音書1章と21章にしか記されていません。
 ナタナエルについて注解書や事典などを調べたのですが、彼についての丁寧な解説はほとんどありませんでした。
 それでは、多くの弟子の一人で、たまたまヨハネによる福音書だけに登場した人物かと思いますと、ナタナエルはイスカリオテのユダが死んだ後、十二弟子の欠員を補充する弟子や婦人たちの中に名前が記されていません。十二弟子ではなかった。けれども、主イエスは彼を評価されていた。(新約213頁)。
 ナタナエルはヨハネ福音書212節に主イエスの復活後、ティベリアス湖畔で十二弟子と一緒にいます。ティベリアス湖はガリラヤ湖の別名で、マルコによる福音書16章にこれにつながる記事があります。新約聖書97頁です。
 「主イエスが復活した朝、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメと一緒にイエス・キリストを葬った墓で、白い長い着物を着た若者――天使から、166節『若者は言った。「驚くことはない。あなた方はっ鹿に付けられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
 7さあ行って、弟子たちのペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる.かねて言われていた通り、そこでお目にかかれると。
 この記事が意味しているのは、ナタナエルも、この知らせをエルサレムで聞いたこと。
主イエスと一緒にエルサレムに来て、弟子たちや、婦人たちと一緒に泊まっていた人々の中にナタナエルがいた」ということです。
 そうでなければ、ナタナエルはガリラヤに近いカナの人ですから、ナタナエルに他の弟子たちが「イエス・キリストが十字架にかかり、復活された知らせ、特に『ガリラヤ湖でお目にかかれるという伝言が届くわけがありません。メールも電話もない。
 ナタナエルはエルサレムで弟子たちの中にいて、ガリラヤへ一緒に来た。
 ヨハネによる福音書の記事をもどります。

 ヨハネ福音書143節。「1・43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。
 この記事は、復活後の主イエスに会った記事と別です。フィリポの召命は唐突でした。
 「1・44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。1・45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。

 これも、唐突な記事です。フィリポとナタナエルがどのような関係なのか全然分からない。ナタナエルはカナの人――ということはナタナエルがベトサイダに泊まっていて、フィリポとは知り合いだった。
 フィリポは旧約聖書に記されている言葉をナタナエルに言う。聖書の引照によると、ここで言った言葉はイザヤ書714節とされます。
 ここでは、イザヤ書713節から朗読します。旧約聖書1071頁上段後半から。
 「13イザヤは言った。ダビデの家よ、聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足らず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか』『それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
 もう一箇所、エゼキエル書3423節から、これも聖書で引照が記されています。旧約1353頁の上段
後半です。 
わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。
 3424 また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。 3425 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。悪い獣をこの土地から断ち、彼らが荒れ野においても安んじて住み、森の中でも眠れるようにする。
 この言葉は、言うまでもなく主イエス・キリストの預言。
 ヨハネ福音書146節。「するとナタナエルが、ナザレから何か良いものが出るだろうかと言ったので、フィリポは、来て見なさいと言った。
 フィリポとナタナエルの関係がわずかにですがうかがえます。フィリポにとってナタナエルはラビ、しかも親しく教えられた恩師。そうでなければフィリポはそのまま反論したはずです。けれども、そうしないで「ナタナエル自身が会い、自分で判断するよう」促しました。

 フィリポは既にイエス・キリストを固く信じている。それで主イエスはフィリポを一言で弟子として招かれたと知ります。
 「1・47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』」
 これは、私たちが知るイエス・キリストの言葉の中で初めての言葉です。私たちは主イエスがファリサイ派や律法学者を「偽善者」と歯に衣を着せず呼んでいたことを知っています。「この人には偽りがない」と言うのは初めて聞いたこと。
 「1・48 ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。
 この、評価を込めた「見た」という主イエスの言葉も、貴重と言わなければなりません。聖書で読む主イエスのこのような言葉は、新約聖書では二つの場面だけの言葉です。
 一つの場面は主イエスに部下を癒されたローマの百人隊長の信仰(マタイ812、平行記事)を称賛した記事「はっきり言っておく、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と、もう一つはヨハネ福音書の今日のこの箇所。
 主イエスが相手の率直な発言を評価し、偽善をどれほど嫌われていたかがここにも現れています。ここでは、ナタナエルの心が率直なことを見られていた。
 「1・49ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』
 ナタナエルがこのように答え、主イエスをキリストと告白したのは、主イエスが「この人には偽りがない」と言われことにつながっている。
 ナタナエルは主イエスが偽善者を否定するのと同じく「自分をまったく真実な人間でありたい」とした。 
 これは、実際の人々の中に見い出せない。特にイスラエルの「主なる神」を信じる者は、「真実とは言えない」「偽善的」神殿での実際を見、「神による真実」を求めつつ、神殿ユダヤ教に絶望するしかない。  
 それで、彼、ナタナエルは、ほんの数語を応答する中で「イエス・キリストの真実」を知った。ここで、彼自身が与えられた事実は、彼にとって計り知れないものだった。
 1・50 イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』
 イエス・キリストのこの言葉は、私たちにではなくナタニエルに言われている言葉です。けれども、ここで言われていることを通して、更に、わたしたちに告げています。主イエスは真実の存在です。主は非難や叱る言葉ではなく、私たちの中にある「真実」に向かって柔らかに、愛をこめて言っています。
 「1・51更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」
 これは、どういうことを示されているのか。
 これが「偉大なこと」と言われたのはどういう意味でしょうか。
 私たちは遥か前から「地動説」を知り、私たちの地球が太陽の惑星であることを知っています。実際、目で見るように月からの地球を見、他の天体の活動さえ目にしています。
 ですから「天が開け」と信じられても。地上と大気圏と宇宙空間の間のどこかに「天」が実体としてあらわれ、「天」が開かれるのを「物理的に信じる」ことはできません。
 けれど、その一方で「次元の違う存在の場」が理論的にあるとされることも知っています。
 また、現実の物理的世界で、世界全体の宇宙規模の歴史の中で、実際に「ビッグバン」が起り、今日の常識的物理法則を越えたと言える歴史、また、そうとしか言えない規模で「宇宙」が存在し、なお今も拡大していることを否定できません。
 言い換えれば、現在宇宙天文台で実際に見ることのできる定常的宇宙の中で、非定常的宇宙、異常的宇宙があり、それらが存在していることは同じように否定できない。
 それが、現実としてあります。
 それを、主体を持つ人間として否定できる。しかし、その否定は思考としての否定であり、実体の否定、多様な現実の具体的否定に至ることが出来ない。この、矛盾しているとも見える宇宙存在の中で、私たちは紛れもない実体として存在しています。
 私たちは、この実体を、この現実を「現実」として受け容れる必要があります。なぜならば、私たちは時間と共に生きている存在ですから。
 自分たち「人間」を「生きている存在」とするとき、知ることのできる全存在の中で、私たちは「自分の存在」を知り自覚して進むことが出来る。が、全然関心を持たず「成りゆき」でも存在できる。けれど、成りゆきでの存在は、空虚に近い。それは「虚無」への接近とも言えます。「虚無は『死』」です。

 三位一体のキリスト教という存在は「虚無」を退け、現実に「神様」を信じます。現実に「」を信じ、「愛としての存在」を信じます。頭の中で「信じる」だけでなく、「生きる中で、愛の現実、信仰の現実、希望の現実を信じます。」(「現実」の代わりに「本当にあること」でも同じ)。

 主イエス・キリストが言われた「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」この言葉を望み見、「真実」を軸にして生きるかどうかは私たち自身の選択です。

主イエス・キリストは、私がどれほど破れ、どれほど悲惨の中にあっても、悲惨を悲惨のままに真実として生きるよう願っておられる。神様に対する真実こそ、神様による「自由をもたらす」から。

 少なくとも「今、実際に生きている私」は、主なるキリストに望みを置き、「真実に生き」「神の天使たちが人の子の上に上り下りするのを見たい』」と願います。

 必ず、天の国で「見させてくださる」と信じます。

 祈り 讃美歌21520「真実に清く生きたい」