説教「最初の弟子たち」2017.4・23

2017423日 主日礼拝ヨハネによる福音書連続講解説教(6)          
説教「最初の弟子たち」牧師 武井恵一 
聖書 ヨハネによる福音書13542
讃美歌(21)52歌えたからかに」、323「喜び祝え」、397「主の教え」、88,37-3「イエス・キリストよ」

 今日ははじめにヨハネによる福音書から「最初の弟子たち」とあるところを取りあげます。
この出来事はヨハネ福音書だけの記事です。マルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書は漁師たちを対象として主イエスが弟子にされたことが記され、「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた」と言われて、それぞれが「網を捨てて従った」と記されています。
 マルコ福音書では、この後に「レビを弟子にする」記事があり、これも他の共観福音書にはありません。
 ヨハネによる福音書は、共観福音書に比べると大きく違います。
 ヨハネによる福音書では、アンデレともう一人の弟子が最初に登場します。
1・40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 1・41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
 彼らはこの時「漁師」としてではなくヨハネ――洗礼者ヨハネの弟子として、アンデレがシモン・ペトロに会い、声をかけるかたちです、ここでは「漁師」とはしていません。
 イエス・キリストはご自身が父なる神から命じられ、人間世界に「遣わされてきた」ことをルカによる福音書443節で言われました。もう何度も引用した言葉です。
 「しかし、イエスは言われた。他の町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。』」
 主イエスが成し遂げられたことは、「神様との和解」「罪の贖い」は「成就された」。更に、これによって「神の御国」が人間世界にもたらされました。
 けれども、この事柄・出来事はそれだけでありません、同時に「この福音を告げ知らせ、人間がを自分たちのものにする伝道が並行して行われなければならない。
 これを父なる神様の下で「主イエス・キリストが行われ、働かれた」現実があります。この伝道は主イエスの復活後、「主イエスを信じる弟子たち、人間によって行われ」ます
 これを「現実」と受けとめる時に、主イエスが、聖書の中でどうして「弟子を大切にされるか」のつながりが分ります。
 神様の大計画は、まったく人間自身による罪と背きが原因でした。
 人間を罪から救い、神の御国に招く「福音」と「伝道」は、初めから一体で進められていました。信じる人間の「証し」も、必要な一体です。
 これは「福音」が全宇宙そのものの規模を意味する大きさであり、「伝道」もこれと同じくらいの大きさでなければ「ならない」ことを意味し、私たちに「告げ」います。
 わたしたち豊橋東田教会では、マタイによる福音書を通して「福音」の種をいただき、ルカによる福音書の「御国」記事を通して「私たち自身が招かれ、向かうところ」とされました。
 そして、今日は、弟子たちの働きを含め、神様を信じ、イエス・キリストを信じ、聖霊によって生かされる弟子、私たちが「相続人である」。思いもよらない「弟子」の大きな「現実」をお話しします。
 ローマの信徒への手紙815節以下。パウロは確信を持って記しています。
 「15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」

 本来では、この巨大な=全宇宙を超える規模の現実は、新約聖書の後半、ローマ書、ガラテヤ書を解き明かすところで与えられるはずの理解ですが、この日「
弟子たち」の聖書個所で与えられました。
 これは、わたしたちの「大きな指針」「方向づけである」と魂に刻む事柄ですが、今回「弟子たち」に焦点を当て「神様とわたしたちの関係を現実に改めて受けとめなければならない、その、理解が与えられつつある。」と申し上げます。
 ここで、今日の聖書箇所かた離れますが、「弟子たち」に関連して思いがけなくも知らされたことをお話しします。
 これは、私自身が、2017421日金曜日、説教の準備をしている中で知らされた理解です。正直に言って、この理解が今、与えられたこと自体、信じるのが困難です。だからこそ、この段階で話すべきだとうながされ、お話します。
 私たちはイエス・キリストによる「福音」を知り、信じ、「御国」に向かって進んできました。
 御国が、一体何のことなのか、わたしたちの人間世界で、実際に何を意味するのか、私たちはほとんど分からないまま、与えられた福音を大切にし、出来る限定の中で進んできました。
 けれども、この金曜日、ここに新しい窓が開かれたのです。わたしは驚き、畏れます。
 私の説教は、いつも「『神の国』と『伝道』に結び付けてまとまる」という声を聞きました。私自身この声を意識し、他の表現を捜しながら話す傾向を自覚します。
 けれど、「神様の存在、神様の御国」は。永遠に向かって進み続け、拡大し続け、高まり続ける存在です。人間には、はかり知れない「神様の現実」が実際にある。私は、実際に打たれました。
 私自身が驚き、圧倒されていますので、聞いておられる皆様には「何のことだか分らない」かと思い
、心配ですがお話しします。
 実際の体験は極く短かったので、説明出来ないところがあり申し訳ありませんが、421日(金)、わたしに与えられる前のところから、経過を話します。
 毎週、説教の準備は、金曜日に、その主日に定めた聖書の言葉を原稿に移し。ギリシャ語の同じ個所を書き写すことから始まります。
 次は、説教すべきポイントを聖書に求めます。参考資料、聖書注解書も読みます。近年、この過程で眠気に襲われることが多く、迷わず寝て、この日は2時間余り眠りました。
 起きて、説教の構想(黙想)に入ろうとしたとき、「注解書や、参考書に頼るべきではない」と、上からドヤされたような思いがあり、すぐ、「そうだ、与えられている聖書から読み、主からの言葉を受けよう」と方向を定めました。
 そこで、弟子召命の記事を、今日のヨハネ福音書だけでなく、新共同訳聖書、マルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書を取りあげ、改めて読みました。そこで気付いたのは、共観福音書で主イエスが言われている弟子集めの言葉です。
 マルコによる福音書117節「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』
 なぜ主は漁師を選ばれたのか? 思い当たるのは漁師こそ「獲物を獲る」喜びを知る者であり、「人間をとる者」に一番近いと言えます。
 主イエスが「伝道」を第一にし、弟子とする人材を「漁師」に求めた。何のために――神の御国に人を獲得するためです。主イエス・キリストの「十字架の痛み」と「エリ、エリ、レマサバクタニ」の苦しみは、この実現に焦点があったと、この時、知らされました
 弟子とされた者――聖書の中で、主を信じ、主によって生かされるものは「相続人」と記されています。一体何の相続人なのか。(ロマ書817.。この後話します)。
 今までたちの多くは、これを「信仰の相続人」と理解されていました。だからこそ、我が子に小児洗礼を受けさせ、日曜学校――こどもの教会に来るよう強く勧めて来られ、子どもたちの受洗に涙を流してこられた。これは、大変なことです。なかなかできません。
 けれども今、私自身に対して、「弟子たち」について、与えられ、知らされたことは「家族や近親」という実際のつながりがある関係とは、大きく離れたところに中心があります。
 「実際に、とても大きな規模で、弟子とされた人間が用いられ、永遠の命をいっぱいに用いて活動する」そのような「現実が、私たちの前にある」ことです。
 実際、私たちは「主の御国」がどれほどの存在かを知りません。
 神の御国は神の天地創造・宇宙すべての創造から始まり、実際に宇宙全体に広がり、今も光速で拡大している行く。生物のいない世界にさえも福音と神の御国が広がり、「相続する者」が必要とされる。そこには多くの「心を込めて『愛する』働き」が必要です。
 主イエス・キリストを信じる者はどこへでも出かけ、それぞれの世界で主イエスと共に「相続人」として働くよう、わたしたちの復活の生涯で招かれているのです。「相続人」は、極端に要約すれば、「神の御国の相続人」です。
 今日の「最初の弟子たち」によって、目が開かれたのは「弟子として、主の御国で、主と共に生かされる」働きです。「永遠の時間が与えられても、なお、時間を――永遠を求めたい。それほどの深さと、広さ、高さがある」とおぼろながら、知らされました。
 私たちが相続するのは「神の御国そのもの」です。「インマヌエル――神さまが共にいてくださる神の御国」を、信じ、従う弟子たちが受け継ぎ、与えられる働きを継ぐのです。
 これは、途方もないことです。でも、「三位一体の神を冒涜する」ものではなく、逆に「三位一体の神こそまことの神と、証しする」ことです。
 これは、キリスト教のスローガンとも言える「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」を更に大きく示すとも言える言葉です。
 創世記126節にある言葉は、神様が人間を創造された時の言葉です。パウロはこの言葉をしっかり意識し、主なる神、三位一体の父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の神を信じてローマの信徒への手紙をこのように記し、それが許されて今日のキリスト教があります。
 創世記126節「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、血の獣、地を這うすべてを支配させよう。」
 この言葉は、パウロが言っている「相続人」を、まさに現わしています。
 ただ、「すべての人間がこの言葉に当てはまるとは言えません」。パウロが言うように「神の霊によって導かれる者は皆、神の子」であり、それは生まれながらの人間ではありません。
 けれど、相続人として宇宙の様々な世界に派遣され、どう猛な動物や生物に「愛をもって働きかける人生」がどれほど困難な中での喜びに満ちているか、これは、想像することさえできません。
 神様に、主イエス・キリストに喜ばれ、栄光を与えられる生涯――永遠の生涯です。
 キリスト教は、「信じれば救われる」宗教と言われますが、「通りいっぺん」の理解でしかありません。
 また、「神の御国で永遠の命に生きる」ことが、「死なない命」だけではなくそこに大きな働きと喜びがあることこそ、私たちが喜んで話し、聞いた方々を喜んで迎える基本になると覚えます。
 これが、私たち人間個人個人によるのではなく、主により、聖霊によって与えられ、更に、わたしたち教会に集う者はお互いに「聖徒の交わり」によって支えられ、活動できます。
 私たちは「神の霊を受けた、相続人」です。 この現実を心に留め、心から語りたいと祈ります。  
   祈り 讃美歌21397「主の教え宣べ伝え」