説教「聖霊による洗礼」2017.4.9

201749(日)主日礼拝 ヨハネによる福音書連続講解説教(6)                 
説教「聖霊による洗礼」 牧師 武井恵一 
聖書 ヨハネによる福音書12934
讃美歌(21)19み栄告げる」、299「移りゆく世に」、
345「聖霊の力に」、88,29「天のみ民も」

 先週42日の礼拝ではもっぱら洗礼者荒野のヨハネについてお話しました。それは、エルサレム神殿のユダヤ教首脳たち、大祭司をはじめ祭司長、高位にある律法学者、民の長老たちから派遣されたレビ人(祭司たちの一族)やファリサイ派の人々でした。今日は先週の続きです。
 エルサレムから派遣された彼らは、ヨルダン川で人々に悔い改めを迫る洗礼者ヨハネの活動が広がり、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一体から人々がヨハネのもとに来て、6を告白し、ヨルダン川で彼らから洗礼を受けた。」(マタイ35)ことからヨハネのもとに来ました。
7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見てこう言った。「蝮の子らよ、させ迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。……」
 これは、今日の聖書個所にはいります。
 1章29節その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。1・30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
 今日の中心の一つは「神の子羊」です。この言葉がイエス・キリストを表す言葉だということは知られていますが、この「子羊」が、イスラエルのどの家庭でも大切にされ、愛された羊にちなむ愛称と考えるのは間違いです。
 たしかに主イエスは「神の独り子」であり、また、ヨハネ福音書では「羊のたとえ」「羊飼いのたとえ」などがあるので、イエス・キリストご自身を「神の独り子である、子羊」としても不思議はありません。けれど、29節後半に記されている「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」は、愛称ではなく「キリスト教福音の中心そのもの」です。
 洗礼者ヨハネの「世の罪を取り除く神の子羊」とは、主イエス・キリストが「すべての人間の、神に対して犯した罪を全部ご自身が負われ、罪の贖いの死を成し遂げられた」出来事を指します。
「神について犯した罪」とは、「神様が、人間を神の似姿」として特別に創造されたのに、「神を信じず、神に背を向け、神に反逆した罪です」。
 「主イエスが十字架で全人間の罪の代償として死なれた」ことこそ、「神の子羊」とされる真実です。
 新約聖書の共観福音書マタイ、マルコ、ルカにはこの言葉がありません。ヨハネによる福音書だけ、129節と36節にあり、「世の罪を取り除く神の子羊」は36節一箇所だけです。
 ヨハネによる福音書1章に戻ります。30節『わたしのあとから一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしより先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
 「この方は……」とヨハネが言ったのはヨハネによる福音書の最初に記された「初めに言があった」という言葉を指しているのではなく、「先に、――神様のもとおられた」ことを指しています。
31節「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼(バプテスマ)を授けて来た。」
 この、洗礼者ヨハネの言葉は私たちにとって貴重です。ヨハネは明らかにイザヤ書に預言されている預言者とされ、主イエスの預言も知っていたとわたしたちに思われる存在です。にもかかわらず、「わたしはこの方を知らなかった」と率直にヨハネ自身が言う。
 しかも、それだけではなく、「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼[バプテスマ]を授けて来た」と続けている。
 私自身、この聖書箇所を読んで「エッ、本当?」と驚きました。洗礼者、荒野のヨハネはイザヤ書40章で預言されている「呼びかける声――呼びかける声がある。/主のために、荒れ野に道を備え」る者(3節、1123頁)、「良い知らせをシオンに伝える者よ。/力を振るって声を挙げよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。」(同6節、1124頁)ではないのか。(自身でそう言っています。)
 しかも、主イエス・キリストご自身が(先週も引用しましたが)「たしかにエリヤは来て、すべてを元どおりにする。言っておくがエリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのような人々から苦しめられることになる。」(マタイ福音書171112節)と言われ、続く13節で「そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われているのだと悟った。」と記されています。(新約聖書33頁)でも、ヨハネは主イエスを知りません。
 神様から言葉を与えられた預言者が、関係することすべてを教えられ、納得して預言し、行動したとは言えない現実がここに現れています。
 これは良く考えれば当たり前のことでしょう。私たちの日常でも「これを伝えて下さい」と言う求めは伝える事――その内容だけで、それに関係するすべてを知らされるのとは別です。
 父なる神、主イエスが私たちに「伝えなさい」と指示されることは、指示された内容を間違いなく伝える事が肝心だ、と悟らされます。
 もちろん、疑問や、内容をもっと広く知りたいときは、求めて祈ることが出来ます。でも、第一にすることは、「与えられた指示、『伝えるなさいと言われた内容』を間違いなく伝えること」です。
31節からの聖書の言葉は短く、読み過ごしてしまう恐れがありますが、大切な箇所です。なぜならば、ヨハネによる福音書で、イエス・キリストご自身の洗礼に触れているのはこの後の箇所だけ。
 「31わたしはその方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼[バプテスマ]を授けに来た。」
 「32そしてヨハネは証しした。「わたしは〝霊″が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、〝聖霊″によって洗礼[バプテスマ]を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
 荒野の洗礼者ヨハネは彼自身が主イエスに洗礼を授け「イエス・キリストの洗礼を見た」のです。
 ヨハネによる福音書が記されたとき、既に共観福音書、マルコによる福音書、マタイによる福音書、ルカによる福音書は出されていて、ヨハネ記者はそこから「霊が鳩のように天から降って、この方の上に留まるのを見た」と自由に引用することが出来ました。
 けれども、改めて「33わたしはこの方を知らなかった」と、洗礼ヨハネ自身が彼の言葉として先に言ったことは、主イエスについて知らないまま、主イエスご自身に「水による洗礼」を「授けた」のです。しかし、洗礼者ヨハネによる「主イエスへの洗礼」は、ヨハネによる福音書にはどこにも記されていません.『霊が鳩のように降って』と言っているのは洗礼者ヨハネの言葉です。
 先週も言いましたが、荒野の洗礼者ヨハネは母エリザベト、父はエルサレム神殿祭司、それも高位の祭司だったザカリアです。
 エリザベトがルカによる福音書に登場した時、「あなたの親類エリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。」と136節に記されています。どれほどの年齢か分かりませんが、懐妊・出産が当然のことと考えられる年齢ではなかった。
 既に、眼も、耳も年齢によって衰えていたと思われます。マリアが天使ガブリエルの言葉を受け、エルサレム近くの山里に行ったときの記事には、彼女を手助けする身内のものや、近くにいる女性はまったく登場していません。
 少なくとも祭司ザカリアが幼児をエルサレム神殿にともなった。ごく普通の成り行きです。
 すると、幼児ヨハネ、そして、少年ヨハネはエルサレム神殿に数多い律法学者、サドカイ派の祭司たちから最もレベルの高い、密度の濃いヘブライ語聖書を学び、暗唱し、ラビたちに活発な質問をして育ったのは間違いないと言えます。少なくも、彼の反抗期までは。
 少年ヨハネがイザヤ書を読んだのは疑えません。
 イエス・キリストが活動した時代の人々は、聖書の中でもイザヤ書をよく暗唱していたとされています。これは、想像ではなくルカによる福音書32節に「アンナスとカイアファとが大祭司であった時、神の言葉が荒れ野でザカリヤの子ヨハネに降った。3節そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるためために悔い改めの洗礼[バプテスマ]を宣べ伝えた。
 4節「これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。」と記され、続いてイザヤ書40章の言葉が引用されている。
 主イエスとほぼ同年代の荒野のヨハネは、どの様な思いでイザヤ書を読み、暗唱したでしょうか。
 彼が12歳になる前にエルサレム神殿を去ったと思われることは先週お話ししました。
 けれども、今日の聖書記事は一層深くヨハネの活動を思わせます。
 「ヨハネは、荒野に入ってから無口で、独りで暮らしていたというのではなく、詩編やイザヤ書などを大声で暗唱し、讃美の歌を唱い、地域の人々に善く知られていた」と充分考えられます。
 ヨハネは荒野で生活し、聖書の言葉を暗唱するうちに「わたしは荒野で叫ぶ声」なのだと知ったのです。そのように、聖霊に導かれた。
 体が頑丈で大きく、頼まれればどんな仕事でも引き受ける。根はやさしく、温かい性格の人ヨハネ。
 地元の青年たちや、神様を信じる人々が彼を一人にしておいたはずはありません。20歳を過ぎたあたりから、彼の周りには、かなりの支持者、弟子集団が生まれ育ったはずです。
 そして、聖霊にうながされて、ヨハネはまわりに集まった人々に「水による洗礼」を授け始めた。
 洗礼ヨハネの名がエルサレムにまで聞こえ、神殿ユダヤ教のファリサイ派などが調査に来た状況は、「彼を中心とする宣教グループがそこからエルサレムまで活動していた背景を物語って」います。
 彼はそのようにして成長し、活躍していた。そこへ、主イエス・キリストが登場しました。
 ヨハネがイエス・キリストと出会い、「この人こそ!」とすぐ悟った時の彼の喜び、彼が思わず弟子たちに伝え、弟子たちが彼のもとから主イエスのもとに移るのを心から喜んだ場面が思い浮かびます。彼は、間違いなく「主イエス・キリストの先駆けとなった」のです。しかも、主イエス・キリストに水による洗礼を授けました。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
 ヨハネは自分がどのように預言されていた者か知らなかった。ただ、「聖霊に命じられたことを、そのまま受け入れ、水による洗礼を人々に授けた」のです。
 これは、わたしたちに告げられていることです。信仰を持ち三位一体の神を信じても「分からない、わたしは何をすればよいのか」と自分自身に問い、そこで、立ち止まり、与えられたことを疑問に思う。
 当たり前ですが、ヨハネはそれを「霊によるうながし、霊による洗礼」と受止め、素直に、率直に「与えられた務めを行った」のです。「自分自身が知らないまま、動き始め」ました。今これがわたしたち自身に告げられています。
 わたしは「神の国」について与えられ、そのままに語ってきました。そうするしかなかったからです。
 これは、珍しいことではありません。多くの人々がそのようにして自分の道を歩んで行きます。
 ヨハネの短い生涯は喜びの凱旋となって天に向かいました。
 祈り 讃美歌21345「聖霊の力にあふれ」