説教「荒野で叫ぶ声」2017.4.2

201742(日)主日礼拝 ヨハネによる福音書連続講解説教(5)                 
説教「荒野で叫ぶ声」   牧師 武井恵一 
聖書 ヨハネによる福音書11928
讃美歌(21)18心を高く挙げ」、296「命の命よ」、
    
237「聞け荒野から」、7288,28「み栄あれや」


 今日は、先ほど朗読していただきました荒野のヨハネに集中してます。
 荒野の洗礼者ヨハネは新約聖書に記された記事が中心ですが、中心がもう一つあり、旧約聖書イザヤ書40章に「呼びかける声」として40章3節から31節にあり、飛び飛びに朗読して話します。
3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
 「荒れ地」とは、分りにくい言葉を意味し、それを「やさしく、広く、分りやすく伝えよ」と言われる。
5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者=人間は、共に見る。神の言葉がこう宣言される。
6呼びかけよ、と声は言う。」この民は草に等しい。=難しい事は分からない…9 高い山に登れ/良い知らせ=神の福音はそこで語れば、彼らに分る。シオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ……恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神/を、「代弁者ヨハネを…」。
11 主は羊飼いとして群れ=信じる人々を養い、御腕をもって集め/わかろうとしない=小羊のような人々をふところに抱き、その母を=保護者を導いて行かれる。=多くの人々が「出来るわけがない」と投げ出す「神への悔い改め」を「心を入れ替え、神に心を向ければ」、そこは「命の救いに至る広い道だ」。
 この「呼びかける声」はヨハネを指し、神は、こう叫ぶ使命をヨハネに与えた。
 この聖書箇所は救い主メシアが現れる前に、「神様からの預言者」(これが荒野のヨハネ)が現れて預言をするとイザヤが告げているところです。
 9節で言われる「良い知らせ…」はエバンゲリオン――「福音」です。しかも預言はこれだけではありません。今日のヨハネ福音書、21節にエルサレムから遣わされた祭司の「あなたはエリヤですか?」と尋ねる記事があります。
 この質問は、旧約聖書マラキ書3章23節にある預言、「23見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」とある預言者マラキの言葉は、天におかれていたエリヤが「荒野のヨハネ」として、主イエスが現れる前に人間世界に来たことを現わしていた。
 これに関連して、マタイ福音書17章10節―11節で、弟子たちが主イエスに「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねます。
 主イエスは「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくがエリヤは既に来たのだ……」この言葉こそ、確実な証拠です。エリヤは、旧約聖書でただ一人、天に引き上げられ、死んだ記事がない預言者、列王記下、2章11節(旧約578頁)に記されている。ヨハネはエリアの生まれ代り。
 13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」
 今日は、ヨハネについて聖書を掘り起こします。洗礼者ヨハネは旧約聖書で預言されているだけでなく、新約聖書にその誕生記事が書かれ、主イエスと縁続きの従弟にあたること、その後のヨハネについても記事もあり、要約して話します。ルカ福音書1章39節から「マリア、エリザベトを訪ねる」小見出しの記事が1章80節まで続き、ヨハネの少年時代から荒野の時代にも触れている。
 少し前の1章36節。マリアへの誕生予告のあと、「36あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。」とあり、36節からマリアがエリザベトを山里に訪ね、40節「そして、ザカリヤの家に入ってエリザベトに「神の聖霊によって身ごもった」と話した。41マリアの言葉をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子=荒野のヨハネが踊った」。胎児ヨハネは天にいたエリヤとして、マリアからメシアが生まれると知っていた!
 マリアに天使が現れたとき、エリザベトは身ごもって6か月、マリアは天使の言葉を聞いて、急いで出かけたでしょう。急がないと旅がは出来ないと分っています。
 この記事では体内のヨハネが「踊った」とあります。どれほど元気のいい胎児でも、踊るはよくよくのことです。マリアは三か月ほど滞在したと記され、ヨハネの誕生まで滞在したと見られます。6か月ちょっとの胎児ヨハネが、主イエスの母マリアの声を聞き、高齢の母の胎内でよくぞ!と思われる記事。ヨハネの父ザカリアはエルサレム神殿の祭司で、しかも輪番で至聖所に入って務める重職の立場にあったと分ります。
 後に、ヨハネが幼児の頃から父と一緒にエルサレム神殿に行き、祭司や律法学者の間で育ったと示唆されているが、同時に、同年輩と思われる主イエスが12歳の「過越し祭」で四日間もエルサレム神殿で祭司や律法学者と過ごし、しかも賞賛された記事の中で、少年ヨハネは「何の痕跡も記されていない」事実が更に具体的な情況の背景を示している。
 既に少年ヨハネは12歳以前に、エルサレム神殿や自分の家から離れ――というより、飛び出して、水が豊かにあるヨルダンの荒野に行き、神様を心から信じつつ、自から自力で戦い獲った野獣の皮衣を身に着け、イナゴや野獣や、野蜜で生きる生活に入っていたのではないかと見られます。
 なぜかと言えば、ルカ福音書19章45以下に主イエスが30歳過ぎ、弟子たちを連れて最後のエルサレム神殿訪問を行ない、そのとき、エルサレム神殿――神殿ユダヤ教の上層部が腐敗した現状に怒りを爆発させた記事=エルサレム神殿での――ずっと以前からの腐敗が記されていること。
宮清め――神殿内で神を神と思わない祭司長や律法学者と悪徳商人たちが――結託して貧しい参拝者に犠牲の献げ物や、貨幣の両替で貴重なお金を巻き上げ、ふところを肥やしていた実態が、既に、ヨハネの幼年時代以前から公然と行われていたこと」が、ここにされているからです。
 父ザカリヤは、聖書記事からも清廉潔白な、「神に従い、不正に染まらない孤高の祭司」と見られます。
 少年ヨハネは毎日神殿へ父と共にのぼり、遊び、学んでいた。神殿でほとんど当たり前のこととなっていた醜い、露骨な「貧しい者を喰い物にする」と金儲け、その裏での神殿ユダヤ教首脳部の貪欲、更に、神を神と思わず、形だけ高潔をひらけかす「偽善」を毎日見て、我慢できなかっと見られる。
 父の存命中から、少年ヨハネは神殿悪徳祭司たちの行状を非難し、うるさい憎まれ者としていじめられ、陰惨な暴行を毎日受けていた。だから、高齢だった父ザカリヤが天に召され、母エリザベトも召されると、喜んで、(ここだけ、豊かな自然と水が有る)ヨルダンの荒野に飛び込んで行った。
 洗礼者ヨハネについては、マラキ書(旧約聖書の最終)に「3・19節見よ、その日が来る……20節しかし、わが名を畏れ歌うあなたたちには義の太陽が昇る。23節見よわたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤ(ヨハネの生れ変わり)をあなたたちに遣わす。」(旧約1501頁)があります。
 他にも多くの記事があり、様々なことが記されていますが、ここではヨハネの掘り下げをここまでにして、ヨハネ福音書に記されたヨハネについての記事に入ります。

1・19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、あなたは、どなたですか」と質問させたとき、1・20彼は公言して隠さず、わたしはメシアではないと言い表した。
1・21 彼らがまた、では何ですか。あなたはエリヤですかと尋ねると、ヨハネは、違うと言った。更に、あなたは、あの預言者(多分イザヤ)なのですかと尋ねると、そうではないと答えた
 「エルサレムのユダヤ人」は、エルサレム神殿祭司長などから派遣された律法学者(レビ人)、ファリサイ派の人々です。(ヨハネ福音書1・18.新約163頁)。
 少年ヨハネがエルサレム神殿を去ってから少なくても20年近くが過ぎています。ふた昔前、彼らを悩ませたザカリヤの息子は忘れられ、エルサレム神殿首脳はヨルダンの荒野に現れた「洗礼者」を名乗る人
物が人々に衝撃を与え、しかもその活動が人々の注目を浴びで弟子も増え、盛んになっている状況を彼らは無視できなかった。
 それで、信頼できる偽善仲間、ファリサイ派の者たちをヨルダン川の荒れ野に派遣し、「自分たちにとってどのような人物か」確認しようとした。彼らの心配は、「預言されていたメシアの出現」にあった。
 「あの預言者」とは、預言した(既に死んだ)イザヤを指していると見られます。
 要するに、彼らは自らの偽善を自覚し、真実を見ぬく力のある、しかも歴史的に知られている預言者の出現を恐れていた。
 「1・22そこで、彼らは言った。『それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だというのですか。』」
 彼らはここで馬脚を現した――「神への信仰」「救いの待望」によって質問しているのではなく、エルサレムの神殿ユダヤ教祭司長たちに命じられ「洗礼者ヨハネがどのような存在か」――自分たちを破滅に追込む危険があるか「探り、報告させる目的でヨルダン荒野のまで派遣した事実」をヨハネに伝えた。
 そこで、彼らは、ヨハネの言葉を聞いてホッとし、ヨハネを見くびった――大したものではなかったと思い込み、改めて質問しました。
 「1・23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」1・24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
 洗礼者ヨハネはファリサイ派以上に旧約聖書を知っている。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」という言葉はイザヤ預言で語られているのに、あなた方は知らない、とヨハネは心の内で驚ろき、彼らは偽善者と知った。主イエスこそ、メシア・キリストを待ち望む者には希望の徴だった。
 「1・25 彼らがヨハネに尋ねて、あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですかと言うと、 1・26 ヨハネは答えた。わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1・27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。』」
 「わたしはその履物のひもを解く資格もない」とは、ヨハネ自身が主イエスの前ぶれとして、ふさわしくないと自覚し、「小さな者に過ぎない」「全然比べ者にならない」という言葉です。
 彼らファリサイ派の一行は、「荒れ野で叫ぶ声」を知らないばかりか、イザヤが預言しているイザヤ書41章の預言(旧約1125~1129頁)、メシアの出現を知らなかった。
 「荒野で叫ぶ声」はメシア出現の予告であることさえ知らない。
 先に引用したイザヤ書41章27-28節がまさに、このヨハネとの出来事、「27エルサレムによい知らせを伝える者」は一人もいない。」事実がここに記されています。
 今日与えられた言葉の終わりはヨハネ福音書、1・28「 これらのことは、ヨハネがバプテスマしていたところのヨルダンの向こう側、ベタニアで起った。」です。
 彼らは、この旧約預言を多くのユダヤ・イスラエル人が間違いなく読ことさえ知らない。まして、イザヤ52章、そして53章、を心に留めていない。
 けれど、わたしたちはこれらの言葉を読み、いつでも聖書を開いて読むことができます。ここに、主からの慰めと喜びがあります。
 どうぞ、イザヤ書52章、53章をお読みください。福音の預言、喜びを知らせる言葉を受けましょう。

 主イエス・キリストの福音は「荒野の叫びから、ここから開始されました。今日の人間社会を見てください。
イエス・キリストの福音は全世界に広がり、今、イエス・キリストが約束され、天から聖霊を用いて完成に向かっている御国が進みつつあります。


 私たちは神によって守られ、支えられています。どのような困難にであっても、この現実をしっかり意識し、心においてください。主イエスは既に勝利されています。

 祈り 讃美歌(21)237「聞け荒れ野から」