説教「恵みと心理」

2017326日(日)主日礼拝 ヨハネによる福音書連続講解説教(4)                 
説教「恵みと真理」   牧師 武井恵一 
聖書 ヨハネによる福音書11418
讃美歌(21)17聖なる主の」、309「贖いの主n」、
262「聞け天使」、88,27「父・子・聖霊の」

 今日与えられた聖書の言葉は114節、「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」という言葉からです。
 「1・14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 赤いカバーの有名な聖書注解者ウイリアム・バークレーは「そもそもこの部分を書くためにヨハネ記者は、第四福音書(『ヨハネによる福音書』)を書いたと思われるものである」とまで、ここの注解に書き記しています。
 「わたしたちはその栄光を見た」。「わたしたち」という言葉がここで始めて用いられました。ここで「わたしたち」と記すのはいったい誰を、どの様な存在を指すのか。
 「わたしたち」と言っているのはヨハネ福音書記者です。
 広く見るならば「人間全体を指す」と言えます。「わたしたちの間に宿られた」が「人間となって、私たちの世界に父なる神から派遣され、イエスとしてマリアから誕生した」ことを表しています。
 だから、ここから、「イエス・キリストを信じる――今日に続くキリスト教会にある人々」を指すとも言えるでしょう。
 また、洗礼者ヨハネが「証をするために来たヨハネが、自身を含んだ弟子たちを『わたしたち』と指している」と読むこともできる。
 なぜなら、続いて「わたしたちは、その栄光を見た」と記されているから。この「見た」は、ただ単に「見た」というよりも「自分の この肉眼で 確かに見た」と、特別な意味をこめている。 
 ここで、もう一つの疑問「栄光」が何を意味すのか、が顕れます。
 現代に生きるわたしたちは、この時点で「まだ、主の――(ことば)の――栄光は見ていません。ただ告げられているだけ」。
 「見た」と言える人は、「証し者」であり、「洗礼者」であるヨハネでしょう。かれが「証をする」ためには、何かの形で「見る――眼で実際に確認した」と受けとめるしかない。そして彼ヨハネは、彼が告げている相手の人々に、自分を含んで「わたしたち」と言う。
 ヨハネ記者が言っている「栄光」は「輝きで満たす」「栄光で輝かす」「栄化する」で、キリストの先在、生涯、十字架、復活、聖霊降臨、再臨のすべてにわたって「キリストの栄光」を見ている(『新約聖書神学辞典』教文館)を指すとしています。
 ここで、福音書記者ヨハネは「わたしたち人間に」と、神から遣わされた「言」との具体的な関係を語ります。
 記者ヨハネは、初めに「言」の存在――何よりも先に存在した「言」と、「言と神様との関係」を語り、「言」こそ万物を創造した存在であると告げました。
 そして、「言」が「何であるか=命である、」「言」の「内容は」何なのか、=「光である」、と。「言」に初めから存在している「命」と「光」を現わしたとします。
 神と共にあった「言」=「イエス・キリスト」が、肉体となった。

 再びバークレーを引用すれば「これは、全聖書中、最も重要な一節と言えるであろう。それゆえ、わたしたちは更に時間をかけて、その滋味に与る[あずかる]まで、深く入り込まなければならない」と記した。「滋味」と言ったのは今ほとんど使わない言葉で「慈」は「いつくしみの『慈』」味は「味つけ」の『味』です。
たしかに、「この、滋味に与るまで、深く入り込まなければならない」。
 わずか一行の中で告げられた内容は、私たちにとって理解が難しい言葉です。しかし、それほどに、大切です。
 次に、ヨハネが「証かしをするために来た」として登場しす。彼は、明らかに荒野の洗礼者ヨハネと思われますが、ここには一言も「洗礼者」や「荒野」は記されていません。
 あくまでも「証しをする者」としての登場で、「福音書記者ヨハネ自身」とさえ読めます。別人とされても不思議はありません。
 但し、その場合、「記者ヨハネはとして」証しをするというよりも、「預言者」としての発言です。
 「私たち人間全体に、『民の、主なる神』からの約束を伝える」言葉です。
 ここでもバークレーを引用すれば、「もしあなた方が、この創造する言葉、統御する理性がどのようなものか見たいなら、ナザレのイエスを見なさい。」という。
 今日与えられたこの理解が難しい聖書箇所で、多分、一番適切な、大切な理解は、「ヨハネが『証しする者』としてこの働きをした」と捉えることでしょう。
 もう一度114節を読んで進めます。
 「1・14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 言い換えれば、ここで、「わたしたちはその栄光を見た。」とヨハネ福音書が記されていることこそ、ヨハネ自身の「証し」です。
 「証しする者」の働きは、重大です。
 どれほど素晴らしいことが目の前にあっても、それをしっかり見定め、見ていない人々、気づいていない人々に「伝え、証しする」人の働きがなければ、何事も起こっていないのと同じ。
 更に、これが洗礼者ヨハネを指しているならば、洗礼者ヨハネが、何もせずぶらぶら毎日をすごす人だったら、何を見、どれほどの証しをしても、人々に無視されるでしょう。
 けれど、ヨハネ自身の働きは既に人々に注目されていた、そのことで、ヨハネの証は受け入れられ「キリストを証し」した。
 「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 これは「証をする人」以上のこと。イエス・キリストが真に「言」でなければ、どれほどヨハネが、また弟子たちが栄光を証ししても無駄です。
 「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである
 わたしたちは、この言葉によって福音書記者ヨハネが言ったのは荒野の洗礼者ヨハネだとハッキリ確認できました。
 これは同時に、ヨハネ記者が指摘した「初めに言があった」この「言」が、「マリアから誕生した人間イエスであったことを重ねて確認させます。
 これこそ、ウイリアム・バークレーが「これは、全聖書中、最も重要な一節と言えるであろう。」と書き記している中心です。

 次の言葉はカッコ(「 」)の外にあるので、洗礼者ヨハネの言葉ではなく、福音書記者ヨハネが記した言葉と受止めます。
 「1・16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1・17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
 マタイによる福音書、ルカによる福音書が…多分20年ぐらい前に世に出ている。
 ローマ帝国によって国を失い、地中海沿岸や更に北のローマ帝国植民地に追放された人々、ユダヤ教の神殿礼拝が出来なくなったユダヤ・イスラエルの人々が、ヨハネによる福音書を読み、改めて主なる神への信仰を新たにしたことは歴史が証明している。
 それだけではありません。ギリシャ文化、殊にギリシャ哲学を高く評価しているローマ帝国全域の人々にとって、新しく刊行された「ヨハネによる福音書」はイエス・キリストを中心にしているキリスト教の存在とその価値をここから再発見する大きなきっかけになった。
 記者ヨハネとヨハネ教会が『ヨハネによる福音書』を出した時代。
地中海沿岸などに追放されたユダヤ・イスラエルの人々はそれぞれ安定した状態に至り、また、ローマ帝国に属する人、市民には遠いけれどギリシャ・ローマの文化によってうるおいを得ていた人々は、新たに出版されたこの聖書を読んで驚き、新鮮な感動と共に、イエス・キリストを主とするキリスト教に関心を持った。
116節の言葉は、どちらの人々にも喜びと共に理解できる言葉であったはずです。
 ことに、ユダヤ・イスラエルの民はようやく厳しい時代を乗り越え、神殿礼拝は出来ないがヘブライ聖書と、律法の指導書を読む生活に落ち着いた。けれど、彼らにとってギリシャ文化、特に哲学などのレベルが高い現実をどうすることも出来ずにいた。彼らは、知的な誇り高い人々である。
 そこに、現れされた『ヨハネによる福音書』は、生活の恵みの上に、新しいユダヤ教とも言える『聖典』を意味しただろう。まさに「恵みの上に、恵みを受けた」実感があった。
 加えて、ヘブライ聖書の『創世記』を信じるそれらの人々は、「ヨハネ福音書が創世記を支え、現実のもの、高度の哲学的理解につながるもの」であると知った。
 彼らにもまして、イエス・キリストを信じる群れは、ユダヤ・イスラエル人も、ローマ人も、諸国の人々も喜び、未だキリスト教を知らない人々に喜びを伝えた。
 「1・17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
この言葉が、まさしく現実として生きて、この人々に臨み、彼らの宣教がすすめられた。
 「1・18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 この言葉は、ギリシャ哲学に対する力強いキリスト教からの主張として、実際に、ローマ帝国全域に作用したと見てよい。
 当時のキリスト教に対する迫害は、主としてユダヤ教からのものと見られます。ヨハネ福音書は、その意味でも大きな衝撃を与え、ユダヤ教のイエス・キリストに対する、キリスト教に対する反対が湧きあがり、各地の教会は苦闘を迫られた。
 キリスト教が力を揮って、迫害に対抗した出来事をわたしは知らない。そしてまた、そのような迫害が強まれば強まるほど、ユダヤ教からキリスト教に改宗する人々も目に見えて増えたと見てよいだろう。その歴史は、私たちにあるべき方向を示している。
 現在の日本の宗教的状況は、この様な実力排除、実力行使の迫害下にあるのではなく、宗教を越える無関心が最大の壁、最有力な迫害になっているのではないか。、
 その意味で言えば、豊橋東田教会がヨハネによる福音書を取りあげて信仰を養い、高め、少しづつながら大多数の日本人と日本社会に向かっている現状は主イエスの御心に適うと信じます。
 と言って、「いまこそ、伝道に」と叫ぶのではありません。
 三位一体の神、主イエス・キリストは御心を示され、進んで行く方向に道を拓いてくださると信じています。
 祈り 讃美歌(21)262 聞け天使の歌