説教「神の子になる資格」2017.3.19

2017319日(日)主日礼拝 ヨハネによる福音書連続講解説教(3)                 
説教「神の子となる資格」   牧師 武井恵一 
聖書 ヨハネによる福音書145
讃美歌(21)16我らの主」、303「丘の上の」、476「天なる喜び」、88,26×2(グロリア、グロリア、グロリア)

 私たちは201735日から『ヨハネによる福音』に入りました。多くの方が、「初めに言があった」という最初の言葉から、18節までの、いわば「ヨハネ福音書の序文」を何度も読んでおられる。
 そして6節、ヨハネの記事になると、少しホッとする。
 とんでもなく大きな、考えることさえ難しい――重大そうなところから、人間ヨハネ、荒野の洗礼者ヨハネ登場で、彼のことなら分る。興味深い最後の預言者だ、と。
 けれど、ここからの記事は私たちイエス・キリストを信じる人間にとって――わたしたちの周りにいる人々にキリスト教を紹介したいと考えている者にとって大切な記事です。
 ヨハネによる福音書は、この福音書を世に現わした記者ヨハネや、ヨハネ教会の人々が苦心に苦心を重ね、神様に求めて、与えられた正典です。
 どうしてそう言えるのか。
 ここからは、祈りつつ与えられたことですが、一世紀にキリスト教で起ったことを土台にしています。
 歴史的な土台の一つは、ヨハネによる福音書が出された年代にあります。
 ヨハネによる福音書は、マルコによる福音書が反ローマ・ユダヤ戦争で紀元70年エルサレムが陥落する前に出され、80年から90年にマタイによる福音書、ルカによる福音書、使徒言行録などが出された後、20年の間をおいて出されました。
 共観福音書が世に出て、キリスト教の福音が始められ、キリスト教誕生と、驚きの世界宣教が進められる中でマタイ・マルコ・ルカ音書とはまるで違った形のヨハネ福音書が出たのです。
 様々な古代キリスト教の研究書が出ていますが、ヨハネによる福音書が世に出る背景には、大きな時代的、歴史的事情がありました。
 第一にユダヤ・イスラエルが国家として滅亡し、もはや「神の民」と自らを誇れなくなった現実。「初めから存在された『神・言』を自らが属する神」をユダヤ民族の神とした独善は破棄された。ヨハネたちの教会は愕然として、与えられた事実を受けとめ「言」と「共にある神」を「すべての、初めからの神」と告白しました。
 もう一つは、共観福音書が一般の人々にとって「分りにくい」という問題。ことに、イエス・キリストが福音の中心にした「神の国」これは余りにも大きく、偉大であり、崇高であった。実際の生活にかかわる理解は当時も難しかった。
 更にもう一つは、当時の文明世界で際立っていたギリシャ哲学で、イエス・キリストの福音が理解されなかった。ユダヤ・イスラエルの神との関係は旧約聖書でギリシャ文明に評価されていましたが、キリスト教の「神の国と復活」を中心にする理解は「安易な民間信仰」と見られた。使徒言行録1716節から33節にパウロの経験した具体的な記事があります。
 福音書記者ヨハネと、ヨハネ教会などのキリスト者は、このような大転換を顕わし――福音の真理を示すために、ヨハネによる福音書を出したと考えられています
 今日の聖書箇所は洗礼者ヨハネをとりあげ、その活動を通して人々に呼びかけ、キリスト教の本質・その根源と、信仰から与えられる「今までは考えられなかった恩恵」が分りやすい形で示された。
6 節からは洗礼者ヨハネが語られます。
「1・7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1・8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
 1・9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。1・10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」
 ここで、聖書は「光」が「言」であり、「イエス・キリストである」と明確に示しています。けれども
「1・11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
 当時のギリシャ・ローマ世界ではまだ光についてのグノーシス思想が現れる前と思われますが、「光」についての関心が高まっており、主イエスも「暗闇に住む民は大きな光を見」(マタイ4・16)、「あなた方は世の光」(同5・14)、「あなたがたの中にある光」(同6・23)など、言われています。
 11節「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と結論づけているところも大きな鍵です。 受け入れた人々は弟子をはじめとした少数だった。
 これは、イエス・キリストの「復活」がキリスト教宣教の発火点となり、弟子たちが宣教の中心になった実状を現わしています。記者ヨハネ・ヨハネ教会の人々が「神の国」という言葉ではなく「永遠の命」をヨハネによる福音書で用いていることにつながっています。
 また、11節は「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」と新共同訳で記され。ギリシャ語直訳は「自分のもの(複)のところに彼は来た。しかし、自分のものらは彼を受け入れなかった。」と記されています。「自分の者ら」は、私たち人間、「言」によって創造された人間です。多くの日本の人々はこれを知らず、読んでも自分自身のこととしていません。
 けれども、このことがそれぞれの人間に、日本人にどれほど大きく影響するかを、私たちは、同じ日本の人々に伝えなければなりません。
 12節新共同訳「しかし、(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」
 ギリシャ語直訳「1・12しかし、彼を受け入れた者ら、彼らに、神の子らとなる力を彼は与えた.(すなわち)彼の名を信じる者らに。」
 12節では「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」
 この言葉はギリシャ語直訳で「しかし、彼を受け入れた者ら、彼らに、神の子らとなる力を彼は与えた.(すなわち)彼の名を信じる者らに。」と記され、新共同訳での「資格」は「力」が元々の言葉です。
 13節の言葉も大きな意味を含んでいます。
 「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
 13節のギリシャ語直訳も少し言葉が違います。
 「彼らは、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 ここで「血によってではなく」は、「血によって――血縁関係、親族関係によってではなく、民族としての関係にもよらず、」です。既に話したように、ヨハネとヨハネ教会は「神の民」と自認するユダヤ教を切り離しました。
 ユダヤ・イスラエルは、ヨハネによる福音書が書かれた時、既に国家として滅亡し、「ユダヤ人・ユダヤ教」としてだけ存在していました。「肉の欲」は色々あります、説明するまでもないでしょう。「人の欲」は「金銭的、経済的な欲」です。
 どちらも、個人ではありません。新共同訳は「この人々は」、ギリシャ語直訳は「彼ら」と複数であり、集団であることが示されています。具体的にいうならば「イエス・キリストを受け入れ、その名前を信じる人々――信じる人の集団」です。
 教会という言葉はありませんが、これは明らかにキリスト教会を指しています。
 そして、その集団が「ただ、神によって生まれたのである。」と断言する。
 「ただ、神によって生まれたのである。」重要さから言えばここが一番重要です。
 ギリシャ語直訳は、ここを「ただ」という言葉で強調されています。どうして強調する必要があったのでしょうか。
 この強調は単に言葉の上だけでなく、欠かせない重要性を込めたものと意識されているからです。福音書記者ヨハネを含むヨハネ教会は、ユダヤ戦争に敗れたユダヤ・イスラエルがローマによって滅亡し、大多数のユダヤ人がパレスチナから追放された中にありました。まだ生まれたばかりの各地の教会が迫害にさらされ、様々な形で動揺していたと見られます。
 ユダヤ教は、エルサレム神殿が破壊され、かろうじて脱出した高名なファリサイ派指導者ヨハナン・ベン・ザッカイが地中海沿岸のヤムニア村に退ぞき、やがてヤムニア会議を開きます。
 神殿ユダヤ教は神殿を失い、中心だった神殿礼拝が出来なくなり、律法と歴史など文書を中心にした宗教になりました。それしか道が残されていなかった。 
 それは、ユダヤ教そのものの大転換で、それまでユダヤ教の一派としてシナゴークで集会していたキリスト教は敵視され、弟子たちが活動し、宣教していたキリスト教は迫害の対象になり、様々に変わらなければならなくなりました。
 この現実が、今日のヨハネによる福音書。1章13節に示されています。ヨハネと、ヨハネの教会はこの中で「ただ、神によって生まれたのである。」と立場をハッキリ確立し、ヨハネによる福音書を世に出す働きをしました。
 使徒信条にある『我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり』は、この様な中で確立に向かい、やがて全教会のものになりました。

 わたしたちは、「ただ、神によって生まれた」と記された聖書記事が、どれほど私たち自身にとっても大切かを改めて覚えます。教会に与えられたかけがえのないもの、私たちキリスト者一人一人に与えられたものです。
 私たちは、一人一人洗礼を志願した時に、決定的な言葉としてコリントの信徒への第一の手紙12章の言葉を教えられたはずです。1節から引用します。
12:1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。 12:2あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」

 私たちが洗礼を受けるに至った道は多分一人一人違います。その道を思い起こす時、どなたも「偶然の結果」と言えないのではないでしょうか。
 わたしたち自身は、誰でも「ただ、神によって生まれたのである。」と確認しましょう。それは、今日の言葉「しかし、(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」
にあなた自身があてはまり、あなたは「神の子となる資格」また「神の子らとなる力」を与えられたのです。
 言葉では中々実感できないかも知れません。多くの方々はむしろ「そんな、大それた望みは持っていませんでした」と言われるでしょう。
 けれども、福音書記者ヨハネはここに断言しています。「たかだか、ヨハネが言っていても」と言わないでください。ヨハネ自身、あなたを知らないまま「神の霊感」によってこう記し、今、あなたは父・子・聖霊の神によって、この神の正典ヨハネによる福音書を通して、ここで告げられたのです。
 感謝して与えられた道をイエス・キリストに向かって進みましょう。
  祈り   讃美歌21476「あめなる喜び」