説教「初めに言があった」2017.3.5

201735日(日)主日礼拝 ヨハネによる福音書連続講解説教(1) 
説 教 「初めに言があった」
                牧師 武井恵一 

聖書 ヨハネによる福音書113
讃美歌(21)14たたえよ王なる」、294「人よ汝が」、
245「世のならぬ先に」、7288,832「ダビデの子に」


 「初めに言があった」この、ヨハネによる福音書11節の言葉は、とても多くのことを顕しています。様々な人がこれを解釈して、キリスト教の神を示そうとしています。ですから、私たちもこの言葉から与えられたいと心から願います。
 神様、神、私たちは漠然としか「神」を理解していません。そして、私たちの日本には、様々な「神と呼ばれる存在」があります。日本では古来から、山や、海や、台所や、便所や、すべてのものに神が宿る「八百万の神(やおよろずの神)、千代万の神(ちよろずの神)」と言い、インターネット辞典『ウイキペディア』では、『欧米の辞書ではこれをSinto(シントー)と紹介しています。
 一般的に言えば、ヤオヨロズ(八百万)の神は、多くのものを神として崇拝するアミニズムですが、アミニズムを「神道」言われると、「それは違う……」と思います。
 先週の日曜日、岡崎教会で開かれた教育部研修会は、「教会学校に子どもたちが来ない」ことのおおもとを意識して「日本伝道――日本での宗教的伝道との対決」という題で金城学院教授、小室尚子先生による講演・研修会を開きました。
 豊橋東田教会の私と、豊田教会の寒河江先生が教育部担当されました。小室先生から「日本は歴史的に何度も神社神道」・「仏教」信仰を押しつけられ、人々の意識の中に「神・仏」が浸みこんでおり、「父なる神」と言っても分りません、と言われました。これが、日本人に大きく影響し、キリスト教を「別なもの」としている。
 たしかに、その通りです。
 私たちが「神様を信じています」と言っても、キリスト教の信仰を現わしているとは言えません。「困った時の神頼み」は、ごく一般的です。しかも、「キリスト教の神」は神様とはほとんど受けとめられていません。
 小室尚子先生は、「イエス・キリストの神」「キリスト教の神」をはっきり現わさないと、伝道になりません。と明確に指摘されました。
 今日のヨハネによる福音書の言葉は、小室尚子先生の研修会を引継いでいるみたいですが、元々、そのような計画かではありません。3月から「ヨハネによる福音書」を取りあげたいと考え、長老会でも諒承いただいています。
 今日ここで、「初めに言があった」ヨハネによる福音書の言葉からお話しするのは偶然とは言えない思いがあります。
 世界中のどの宗教でも、その宗教の「神様」にあたる存在の「初め」があるはずです。それは、多くの場合『神話』として語り継がれ、それが一つの柱になっているでしょう。今日は、私たち自身も「神様」について心を向ける大切な機会です。
 キリスト教の神様はどのような神ですか? と、キリスト教を知らない人から質問されたら、あなたはどう答えますか。「イエス・キリストの父なる神」と答えるのは一番簡単で、適切かもしれません。けれど、「イエス・キリスト」を既に知っている人でないと、その説明が必要です。
 固有名詞として言う場合、既にその人の知っている名をもとに、その関係を言うのは世界中共通のことです。聖書でも「ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ」などと言います。 
 人々に知られるようになると「愛称・ニックネーム」をつけて「シモン・ペトロ――ペトロは岩を表すニックネーム」などと言います。
 イエス・キリストも「メシアと言われるイエス(マタイ2717)のように呼ばれました。
 もちろん、違う言い方もあります。
 キリスト教の神は「天地を創造された神」、「人間の罪を赦される神」、「愛である神」など、その存在の特徴を表す呼び方も神の内容を顕し、分りやすいいでしょう。
 今日の「1・1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」は、短い言葉ですが神様について基本的なことを含んでいます。
 ここで、一番注目されるのは「言は神と共にあった。」です。そのあと、「言葉は神であった。」と言い直して続くので、つまり、「言イコール神」と理解しがちですが、「」は「言語」の「言葉」ではなく、ここでは、主イエス・キリストご自身を指しています。
 「どうして?」と聞きたくなるでしょう。今、お答えしますけれど、これは聖書に基づいた理解ですので、いっしょに確認しましょう。新共同訳聖書368頁コロサイの信徒への手が手紙115節から、次の頁の20節まで朗読します。ご一緒に目で追ってください。

 115御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
1:16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
1:17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
1:18 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めし、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。
1:19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
1:20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」
 私たちの主、イエス・キリストはここの書いてあるとおりすべてのものが造られる前に生まれた方であり、すべてを造られた方――「万物は御子によって、御子のために造られました」と記されています。
 「12この言は、初めに神と共にあった。13万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
 言い換えるならば「初めに言があった」その「言」は主イエスです。
 この「言」は、私たちにとって大きな意味を持っています。なぜならば、私たちにとって見ることが出来ない「神様」。神様の存在を表してくださるイエス・キリストこそ、「神の言葉」だからです。
 それだけでなく、ここに記されている「言」は、ギリシャ語で「ロゴス」と言いますが、話したり書いたりする「言語」だけの意味ではなく「理性」「真理」「神の精神」も意味しています。
 もう一つ、確認しておきます。イエス・キリストの父なる神様、私たちの主なる神様は、「すべての最初」から存在されていました。 
 主なる神様は、「神の言である主イエス」と共に、天と地を創造される前から存在されていたのです。
 これは、ヨハネによる福音書ではなく、創世記11節から2節に記されています。
 聞いていてください。「1初めに、神は天と地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
 創造された直後は、まったく何の秩序もない、法則もない、まったくの混沌で、しかも真っ暗でした、けれども、創造の業は決してとどまってはいない。神様は秩序に向かって、整合性に向かって創造を進められていきます、留まることなしに進まれます。なぜなら、キリスト教は真実の神様であり「前進される神様」ですから。

 宗教には二つの形があります。一つはヒンズー教や仏教などの「輪廻――物事は円環の形で繰返される」
とする宗教であり、もう一つはキリスト教などの「初めがあり、終りがある線的な前進する宗教」です。
 「キリスト教の神様は、初めと終わりのある、ご意志と力を用いられる神様」です。
 私たちは生涯の中で様々な困難に出会います。出会って苦しんでどうにか困難を脱出したと安心して、また、別な困難や苦しみに入ってしまうこともよくあります。ここで、どの様に生きるか?
 一度目は何とかしても、二度目、三度目となると耐えていくのが更に困難です。
 仏教の輪廻思想のような、「運命」とさえ感じ、投げやりになることもあります。
 けれど、そのような時こそ「神様が私を見ておられる。苦しい自分を知られている」と立ち止まり、「苦しみや、悩みや、困難を、神様にそのまま祈り、訴える」。私は自分自身の体験から「神様はきっと応えて下さる。」と、確信します。
 しかし、多くの場合、それは、自分が望んでいたものとは違う在り方でしょう。
 けれども、そこから前に進める道が与えられます。
 キリスト教の「線的な在り方」は、『前に進む』あり方です。信じて、祈って、進む時思っていなかった道が開かれる。
 「神様を信じる」これは具体的なことです。自分自身を越えて、進むことが出来る生き方です。
 この、「初め」は既にあり「過去」になりました。そして「終わり」は神様だけが決定されます。言うまでもなく、真の神はただ一人の「三位一体の神様――父なる神・子なるイエス・キリスト・聖霊」だけです。私たちはイエス・キリストの神を信じ、その愛と真実を受けとめて生きる者です。
 「13 すべての物は彼を通して出来た。そして、彼なしには何ひとつできなかった。出来たところのものは彼(言)の中に生命を持っていた。」
 ここに記されている「彼」は、イエス・キリストです。聖書は、旧約聖書に記されている「すべてのものの創造」は、「イエス・キリストを通して出来た」と、ここで確認しています。
 もっとてねいに言うならば、「初めの言――ことば」は、「神様のことば」で、神様から発せられました。それは「真理の『生命のことば』」であり、具体的には「イエス・キリスト」です。
 人間は、この「真理」によって初めて「自由」が与えられ、自由を自分自身のものにしました。この言葉はヨハネによる福音書832節にあります。
 イエス・キリストの父なる神様、神様であるイエス・キリストは私たちにとってこのような「神様」です。他に、真理の、真実の神様はいません。
日本人にとって、神仏とかけ離れ、別なことのように思われる「イエス・キリストの父なる神様」をこの世の人々、とりわけ、私たちがその中にいる日本の人々に知らせ、招き、いっしょに「真の、真理の神様」として仰ぎ、信じる道こそ、私たちに与えられた道です。
 私たち、イエス・キリストの者とされ、洗礼を受けた人間は、この務めを託されています。この務めは個人個人をこえて「イエス・キリストと、共に生きる」生き方です。
 この生き方こそは、イエス・キリストがベツレヘムで誕生した時「その名はインマヌエルと呼ばれる」と主の天使が告げられた生き方の実現です。
 「インマヌエル――『神が我々とともにおられる』」この生き方は、新しくされた永遠の命の生き方です。それは、イエス・キリストが歴史を超えて全世界に、すべての人間に告げ、約束された「喜びの音づれ=訪れ」そのものです。
 日本人の多く、99%の日本人は、この真理と真実をしらないまま「死ななければならない」人生をあゆんでいます。ほんとうの「なぐさめと喜び」は、その人生にありません。
 これはまた、「なぐさめと喜び」を約束されているキリスト者一人一人に与えられた「なすべき働き」です。この働きを担う私たちは必ず「神のなぐさめと喜び」さらに「栄光」が与えられます。

  祈り 讃美歌(21245『世のならぬ先に』