説教「言のうちに命があった」2017.3.12

2017312日(日)主日礼拝 ヨハネによる福音書連続講解説教(2)                 

説 教 「『言』のうちに命があった」
                
   牧師 武井恵一 
聖書 ヨハネによる福音書145
讃美歌(21)15み言葉により」、305「イエスの担った」、
183主イエスのみ名に」、88,831

 先週は、ヨハネによる福音書の一章一節から三節を取りあげて話しました。
 「1・1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1・2この言は、初めに神と共にあった。
1・3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 この短い言葉は大きな内容を持っています。
 私たち自身も言葉を用いていますから、「言葉」がどれほどの力を持っているか知っています。その力を私たちは様々な形で知っています。
 けれど、わたしたちの言葉は福音書記者ヨハネが「言=ロゴス」としているものの力とは比べものになりません。私たちが知り、用いている「言葉」と、ヨハネが示した「」とは比較になりません。
 音で「コトバ」と言い、漢字で「言葉」、英語で言えば「ワード」「ランゲージ(各国語)」です。
意志や状況を伝え、お互いに意見を話すことば。
 これは、簡単に言えば道具であり、それ自体の意味や内容を持っていません。
 その一方で「ロゴス」は、「ロゴス=思想、意志の表現」「メッセージや理論を含む表現」いわば、「そな中に意味や内容を持つもの」です。
 それでも、「ロゴス」という言葉も、ヨハネ福音書が「(げん)」として記している存在とは雲泥の差があります。「地球と宇宙全体を比べる以上の大きな、差」があります。
 「言=ロゴス は神であった」と記されています。「言は、また、イエス・キリスト」です。
 「神様」イコール「ロゴス」は、その存在を人間世界の中にあると考え、「人間の運命」や「時々の縁起」など、人間があれこれ論ずる存在ではない、と、ヨハネはハッキリ示しています。
 先週の13節「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」は新共同訳でした。
 ギリシャ語原文直訳は、3節―5節はこう訳しています。
 「1・3すべての物は彼を通して出来た。そして、彼なしには何ひとつできなかった。出来たところのものは」「1・4 彼(言)の中に命を持っていた。そして、その生命は人々の光であった。
1・5そして、 光は暗闇に輝いている。そして、暗闇はそれを悟らなかった。
 先週、一章の一節から3節を取りあげ、平行記事としてコロサイの信徒への手紙115節から20節を引用し、ヨハネ福音書冒頭の「言」は「御子イエス・キリスト」という指摘を理解しました。
 けれど、同時に「言=ロゴス」と記されているヨハネ冒頭の言葉、「ロゴス」も理解する必要があります。ロゴスはここで「語られる内容、存在」を意味します。だから「旧約聖書そのもの」も「ロゴス」です。主イエスが話される言葉も「ロゴス」です。11節は「初めにロゴスがあった」と訳せます。そして、「ロゴスは神と共にあった」のです。
 だから、4節のギリシャ語直訳は、「」を「」と記し人格存在としています。「(言)の中に命を持っていた」と、言う必要がありました。直訳では3節の途中で切れ、4節は「()の中に命を持っていた。」と締めくくっています。
 「」は、人間の「肉体の命」だけではありません。「命は人間を照らす光であった」と規定します。
 私たちは聖書を通して、今、主イエス・キリストが「人間を照らす光であった」と知らされました。
 ここで言われている「」は何を指しているのか。
 ヨハネ福音書は冒頭で「1初めに言があった。言葉は神と共にあった。2この言葉は、初めに神と共にあった。」と記しています。
 ここで、創世記を参照すると、13節「神は言われた。」初めの言葉として、「光あれ。」が記されています。ここで、ヨハネ福音書の初めにあった「」と「神が最初に言われた光あれ』」が重なります。初めにあった「」と「御子イエス・キリスト」は「命と光」でした。
 イエス・キリストを信じ、神様を信じ、聖霊の主を信じる私たちは、ヨハネによる福音書を通して、昔は昔は考えられなかった様々な現実に気付こうとしています。
 私たちは休みの日が得られると好んで山や海に、また、自然が造った様々な場所にでかけ、楽しみ、喜び、感謝します。神様によって造られたすべてに感応する。そこに、恵みや、安らぎや、慰め、癒し、そして「」を覚える。
 これは「命と光を与えられた人間の、自然な、心と魂との反応」です。
 言い換えれば、三位一体の神様から与えられたすべてに対する――自然の感応・反応です。
 四節後半「命は人間を照らす光であった」。
 太陽や月や星々の光だけでなく、様々な光は命から現れ、人間を照らす光だとヨハネは記し、その光のもとは、最初にあった「」だ、と、指摘する。
 私たちに向かって、ここで、人間ヨハネを通して、主なる三位一体の神様が指摘されています。でも、私たちはまだまだ、多くのことに気が付いていません。
15節に記されている言葉は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」新共同訳。ギリシャ語直訳は「1・5そして、 光は暗闇に輝いている。そして、暗闇はそれを悟らなかった。」と、それぞれに記されている。
 どちらも、同じ意味を指しています。どちらも、「『命の言からの光で、暗闇を圧倒して輝く命の光』」です。
 この「」と「暗闇」の対峠は、私たちにとって大きな、深い、真実を示しているといえるでしょう。
 「『言の内に命』があり『は人間を照らす光』」と新共同訳聖書は指摘します。また、ギリシャ語直訳聖書は「『(ことば)は、彼主イエス』の生命であり、『その生命は、人々の光であった』」とします。
 同じことを指し、それぞれに含まれていることが、微妙に支え合っていると受け取れます。
 これは、とても微妙なことです。
 「言がロゴスであった」と11節で告げた後「ロゴスは神と共にあった」とされている。ロゴスは。神ではあり得ない。イエス・キリストも「言=ロゴス」とされますが、「神がロゴスと共にあった」とされていますので、「神の子、も、ロゴスと共にあった」とも受けとめられます。
 これによってイエス・キリストは「わたしは世の光』」(ヨハネ福音書812)と言われ、「わたしは復活でありである」(ヨハネ福音書1125)と言われたのです。
 付け加えれば「ロゴス」は、神だけでなく他のものを意味できますが、「」は、絶対の「三位一体の唯一人の真の神」です。神より尊い存在はありません。
5節は「暗闇」が実際にあることを認めています。暗闇が光に対応しようとしない、光を理解せず、悟ろうとしていないあり方をそのまま記していると見られます。

 ここで「暗闇」として記されていることを少しでも掘り下げ、理解したいと考えます。
 私たちにとって「暗闇」はなにか。
 先ほども見ましたが、この言葉ももまったく同じで、ヨハネによる福音書の「初め」に平行している『創世記』を引用します。
 「1初めに、神は天と地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
 創造された直後は、まったく何の秩序もない、法則もない、まったくの混沌で、しかも真っ暗でした、
これは先週と同じ理解です。今日はこの「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という初めの世界を考えます。
 私たちの世界で、「秩序」の正反対が「混沌です」。混沌は無秩序の混乱をもたらし「宇宙にあるすべての物質は、時間と共にだんだん無秩序になり、自然――その物質自体で元に戻ることは無い」と物理学で理解されます。エントロピーと言われていることです。
 放射能問題、大気温暖化・汚染問題はその具体例です。自然の世界で混沌を秩序ある存在に還元する・元へもどすのは不可能とされます。この「混沌・無秩序」は「暗黒」です。
 けれども、この現実をもう一つの現実に重ねると、私たちの将来の希望が具体的になります。既に、私たちの大きな歴史に現実の具体例があります。
 今、私たちが与えられているヨハネによる福音書の記事は、暗黒の状態にあった最大の混沌状態、混沌・無秩序の極大だった「初めにあった暗黒の世界」が実際に「言」によって新たな創造世界に転換された歴史が記されている。
 もし、人間の力で、混沌・無秩序世界を「新しい秩序世界」にしようとすれば、すでにそれは不可能という試算があり、具体化すれば悲惨な結果に陥るのが目に見えています。
 これは、人間世界の工業力、エネルギー、最大限の人材集結をもってしても不可能でしょう。具体的な計画に進めば進むほど、その困難は目に見えるものになるはずです。
 しかし、「初めに言があった」 神様による私たち自身がこの信仰を堅く持ち、神様のご意志・ご計画に従って進めば、必ず道は開かれると確信します。既にイエス・キリストによって新しい創造・神の国は開始されています。
 問題はむしろ、私たち自身がどのような生き方、人生を歩むかです。
 既に、私たちは聖書によって大きな前進への道を示されています。私たちは「神様の愛」が、どの様な困難も無秩序も解決して下さると知らされ、信じています。
 しかし、この「希望」は、現在の私たち、この世界に生きている私たちが、今のまま、今の延長線上で進むのなら、空想的な希望「楽園願望」に終わるでしょう。
 けれど、キリスト教による人間の「大計画」を掲げる必要はありません。既に始められている神様の大計画が私たちにはあります。私たち自身が主イエスによって「変えられ」、活動するのです。 
 私たちは主から与えられるままに生き、心を主なる神に向けて求め、祈る。一挙にではなく、わずかづつでも私たちは主に用いられて前に向かうのです。
 私たちの生涯がこれによってどのように変わるかは予測できません。
 主イエスご自身が言われた「終わりの日」のことと同じように「その日、その時は天の父だけがご存知です」と覚えましょう。
 主イエスを信じる者が「その時――終りの日」に、何かの形で用いられ、生かされ、永遠の人生を歩み続けさせてくださいと祈り、求めます。
 具体的なことは、それぞれに、信じる者、誰にでも与えられます。たとえ、苦しく、不本意な生活の日々が今の世にあっても、主なる神様は私たちになぐさめと喜びを与えられるでしょう。
 神様、主イエス、聖霊による「なぐさめ」「支え」「希望」「喜び」へ向かうかどうかは、一人一人の自由な意志・信仰によります。祈ることで、神様に率直に訴えることで、道が示されると信じます。
 私たちに、世に誇れる力はありません。
 でも、いっしょに進みたいと願っています。主によって進みましょう。
 祈り 讃美歌(21183「主イエスのみ名に」