説教「敵を愛しなさい」2017.1.15

2017115日(日)主日礼拝 神の国連続説教(43)                 
 説 教「敵を愛しなさい」
         
   牧師 武井恵一 
 聖書ルカによる福音書62736節 
 讃美歌(21)7褒め称えよ」、275「闇を行くもの」、504「主よ御手もて」,
 72
8826×2「グロリア、グロリア」

 この有名な言葉は、ルカによる福音書の、イエス・キリストによる「平地の説教」の一つです。マタイによる山上の説教」と同じように思えますが、違いがあり、マタイによる「山上の説教」と並行してわたしたち「弟子」に命令されています。
 先ほどの聖書朗読では新共同訳を読みましたが、この説教ではギリシャ語直訳の聖書を用います。今日の週報の4頁「坂の途中から」に直訳聖書を入引用しましたので済みませんがそちらをご覧ください。
 新共同訳聖書は主イエスの言葉を柔らかに、やさしい語調で書いていますが、引用した聖書は、主イエスご自身は弟子たちに向かって厳しく命令された直訳です。
 「善く行え」(6章27節の終わり)など、所どころ耳になじまない訳語もありますが、新共同訳は「意訳=意味を主にした訳」ですから、合わせてご覧ください。まだ、キリスト教に慣れておられない方もお読みください。
 はじめは6章27節「しかし、聞いているあなたがたにわたしは言う。」と、前の言葉の続きからで、この前の区切り、弟子たちに向かって「幸いである」と指摘された、神の国の幸い、それに続いて「不幸」を話された後に続いています。
 直前に主イエスは、先祖、大預言者のことを話したので「しかし、あなたがたに」と、聞いている弟子たちに改めて呼びかけました。
 6章27節「しかし、聞いているあなたがたにわたしは言う。『あなたの敵(複)を愛せ、あなた方を憎む人々に善く行え。…
 「あなた方の敵」とは、誰を指しているのか。ルカ福音書4章16-36節以下に主イエスのナザレ伝道があります。「神の国の福音」を宣べ伝え、ふるさとナザレの会堂で聖書・イザヤ書を朗読されました。

 4章18節107頁「18主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人々を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」、
 ユダヤ・イスラエルの人々は子どもの時から聖書(旧約聖書)を暗唱しています。特にイザヤ書や詩編は皆んなよく知っています。
 「20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれた。21そこでイエスは『この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した』と話しはじめられた。22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて……」
 初め、人々は驚き、誉めましたが、続いて言われた言葉で憤慨し「イエスを…山の崖まで連れて行き、つきおとそうとした。」殺そうとしたのです。この人々は主イエスの敵になった。
 同じように、ユダヤ教で身分の高いファリサイ派の人々や学者が、主イエスの癒しの奇跡を目で見ながら、メシアと認めず敵対していました。けれど、主イエスがここで「あなたがたの敵」と言ったのは、ユダヤ教のファリサイ派の人々ではなく、一般の人々が敵対しているそれぞれの相手です。

 主イエスの、「敵を愛せ、あなた方を憎む人々に善く行え」は、弟子たち、私たちに限らず、その時、敵対している、憎んでいる相手に、相手にとって「善いこと」と言えることを行なえと命じられた。
 6・28「あなた方を呪う人々を祝福せよ。あなた方を侮辱する人々のために祈れ。
 新共同訳では「悪口を言う者」ですが、直訳は「呪う者」。主イエスの命令はキレイごとではありません、私たち自身「敵対する人に対してしたくないこと」を「主によってしなさい」、と命令された。
6・29あなたの頬を叩く人には、他の頬もさし出せ。また、あなたの上衣を取る人には、下衣を拒むな。」この言葉は知られています。中学生の頃、面白半分に頬を叩かれて、「反対側の頬を出せ」と言われたことがありますが、冗談で済みました。
 でも、主イエスの言葉は冗談ではありません。現実に、主イエスご自身がそうされた。十字架に架けられる前、ローマ兵たちによる侮辱の場面。そして、ファリサイ派の人々の「メシアなら十字架から降りて来い」と罵られるのも同じです。

 6・30「すべて、あなたに求める者に与えよ。そして、あなたの物(複)を取り去る人から返還を求めるな。」先週のルカによる福音書11章9節「求めなさい。そうすれば与えられる」を採り上げて、この言葉はマタイ福音書と違い「自分のことを求めるより、苦しむ人に与えるために求めるように、主イエスが言われた」と話しましたが、今日は最初から主がこのように言われています。
 6・31「また、「人々があなた方にしてくれるように」とあなたが欲するように、同じように彼らにあなたがたは行え。
 この言葉は、この後、人間世界で共通の「黄金律」と言われるようになる言葉ですが、主イエスは「ごく普通の、人間として当然のこと」として言われた。
 新共同訳では、分りやすく「6・31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」と訳されています。
 意味は同じですが、ギリシア語直訳には、具体性があります。新共同訳聖書の言葉は「こころがける」ように聞こえますが、直訳の言葉には「あなたが欲するように」と、現実の欲求が指摘され、「同じように、あなた方は、彼らが(欲する)に行え」と命令された。
 重要さは同じです。けれど、「彼らのしてもらいたいこと」を「自分のこととしてするように」、主イエスは言われています。
6・32また、あなた方を愛する人々を、あなた方が愛しても、あなた方に何の報いがあるか。罪人らでも彼らを愛する者らを愛する。
 主イエスは、「報い」を強調される。人間の心がいつも自分を主とし、自分が得る「報い」を求めていると知られるからです。
 主イエスご自身は自らの報いを望まれず、「父である神の子」でありながら、父なる神が、十字架で命を落される寸前、「御子イエス・キリストを神の三位一体から裂かれ、捨てられた」。父の神による「裂き、分かたれ」を、子であるイエスはゲッセマネの園で、血の滴るような汗を流して苦しまれた。
 主イエスは、ご自身が三位一体の神から「裂き、分かたれ」て肉体の世界から死の世界「陰府」に降るのをご存知でした。「報い」を望まれず、「人間のための究極の苦しみ」を受けられた。

 ルカによる福音書では、9章にペトロの「
メシア告白」があり、22節で「十字架上でご自身の命が『父によって捨てられる』ことをご存知で」ゲッセマネの苦しみの後、実際に命を落されました。
 聖書にはペトロ告白の時の主イエスご自身の言葉があります。
 「次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』
 主ご自身が十字架の苦しみと、父による棄却、三日目の甦りを、すでに知っておられた証拠です。
 「復活」が、この非常な苦しみの「報い」とは考えられません。復活はペトロのメシア告白のところで、既に予告されました。主イエスにとって既に知られている流れでした。
 では、主イエス・キリストが望み、期待し、このような苦しみの極限まで耐え忍び、敵対する勢力、その人々を愛された「報い」は何が意味されていたのか。このことは少し置いて先に進みます。
 6・33「なぜなら、あなた方に善を行う人々にあなた方が善を行うとしても、あなた方に何の報いがあるか、罪人らも同じことを行なう(から)。
 既に、相手から「善の行い」が与えられているなら、相手に「善を行うのは当然で、報いは望めない」。
6・34「また、その人々から受けることを望む人々にあなた方が貸しても、あなた方に、何の報いがあるか。罪人らも、同じ物(複)を (彼らが)返してもらうために罪人らに貸すのだから。
 34節は「善を行なう」でなく「貸す」ことに切替えられましたが、言われている内容はほとんど同じです。
 この言葉は少し不自然なので新共同訳を見ますと、「6・34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」と訳され、こちらの方が分りやすい。内容は同じです。
 「貸す」ことに対しては「報い」は求めません、「返す」ことを「報い」です。
 6・35「しかし、あなた方の敵(複)を愛せよ。そして、善を行え。また、何も望まないで貸せ。すると、あなた方の報いは多くある。また、いと高き方の子らであなた方はある。彼は、恩を知らない人々、また、悪い人々にも慈悲深くある。
 この「しかし」は、「そうではなく、むしろ」です。そして、「恩を知らない人々」の前にある「」は「いと高き方=神様」です。そのように読むと、ここで言われる「あなた方の報いは多くある」は、人からの「報い」ではなく、「神からの報い」とわかります。
 主イエス・キリストの「敵を愛せ」は、最後まで「報い」を「」に並べて話されました。先ほどの「イエス・キリストご自身の『報い』は何か」をここで求めます。
 イエス・キリストへの「報い」は「復活」とは考えられませんと言いました。復活は、主イエス・キリストが十字架でなされた「贖い」と「人間の身代わりとしての棄却」によって、「神の国を人間世界に到来させた」現実を全世界・前歴史に公けに表す神による「公告」です。
 聖書を改めて読み直し、鍵先週お話しした「求めなさい」の最後にある言葉だと気づきました。
 ルカによる福音書11章13節後半の言葉「まして天に父は求める者に聖霊をあたえてくださる」です。
そこで「人間に『聖霊』が与えられたと記されている聖書記事」を捜しました。
 すると、聖霊による記事は25か所ありました。「主イエスを身ごもった母マリア」、「ヨハネの父ザカリヤ、母エリサベト」「聖霊による洗礼」「ダビデが受けた聖霊」「神殿でのシメオン」「主イエスの洗礼で」「総督や王の前で証しする時話すのは聖霊」「天の父は求める者に聖霊を与え」「復活のイエスが弟子たちに息を吹きかけて『聖霊を受けなさい』
 このような人々への聖霊の記事は福音書に25か所ありましたが、どれも、特別な個人や、特に求めた者です。信じる者すべてに与えられる記事は、主イエスが活動された期間の聖書にはありません。
 主イエスは「ご自身への報い」ではなく、「人間全体に、この上なく必要なもの」として「聖霊の降臨」を求められた。ヨハネによる福音書16章に「主イエスが去って『弁護者、真理の霊=聖霊』があなた方のところに来る」と主イエスが聖霊を約束され、ペンテコステ、聖霊降臨日に信じる者に降ったのです。
 これこそ、「聖霊」こそ、主イエスが言われた「神による報い」です。「聖霊」はイエス・キリストを主と信じて告白し、洗礼を授けられるすべての人間に与えられます。
 「あなた方は、敵を愛しなさい」と命じられたイエス・キリストの言葉はここにまとまりました。最後に言われたのは次の言葉です。6・36「あなた方の父も慈悲深くあるように、慈悲深くあなた方はあれ」「慈悲」は「慈しみと、憐れみ」を顕す仏教からの言葉で、キリスト教では「深く愛する」とされます。
 2016年のクリスマス礼拝で「ここに愛があります」とメッセージを皆さんに語りました。「神は愛です」とヨハネ第一の手紙に記されています
 この言葉はキリスト教だけのものではありません。この世界の、すべてのものに向けられた言葉です。だから、私たちはこの「」をすべてのもの、敵対する相手にも伝え、言葉だけでなく愛を分かち合えと命じられています。すべての人が一緒に「愛の中にいれば敵は一人もいなくなります」。神の国の完成が迫ります。

  祈り   讃美歌(21)504「主よ御手もて」、