説教「喜びにあふれる」2017.1.1

201711日(日)主日礼拝 神の国連続説教(41)                 
説 教 「喜びにあふれる」   
                    牧師 武井恵一 

聖書 ルカによる福音書101724
讃美歌(21)3扉を開きて」、276「暁の空の」、
271「喜びは胸に」,728883-1


 新年を迎えました。今日は元旦です。教会ではまだクリスマス・シーズンで、1月6日にイエス・キリストの公現日、日本基督教団では「栄光祭」ともしている祭日を迎え、喜びを新たにします。言い伝えによれば、三人の東方の博士たちがイエス・キリストを礼拝するためはるばる訪れた日です。
 そこで、今日は主イエス・キリストが喜ばれたところをお話しします。
 イエス・キリストは喜びの人。こういう印象があり、この印象は間違っていません。けれど、聖書に記されている「主イエスが喜ばれた」記事は、とても少ない。ルカによる福音書では、今日お話しする一箇所だけです。
 イエス・キリストは喜びの人と言いましたが、この喜びは「主イエスが、与えられる『喜び』」で、ご自身が喜ばれる記事はとても少ない。けれど、主イエスのうちにはいつも喜びがありました。
 今日の聖書個所は、25日の予定では21節からでしたが、17節からにいたします。この方がイエス様の喜びが分るので切り替えます。
 この出来事は弟子たちを神の国の福音を町や村に派遣された二回目の伝道旅行から繋がっています。最初の伝道旅行は9章1節から記事が記され、この時は十二弟子を送り出しました。多分、数週間ほどの「弟子たちだけ」の活動でした。
 今回の伝道旅行は10章1節から、二回目の旅行で72人の弟子を派遣され、伝道は成功したと見られます。いつものことですが、とても圧縮された記事なので、皆様も弟子たちや主イエスの言葉から、実際はどのようであったか、思い巡らしてください。
 先ほど朗読した10章17節からは、伝道旅行の報告からです。
 
「七十二人が喜びをもって帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」」

 弟子たちの喜びと活気が伝わってきます。以前は、悪霊を追い出せなかった弟子が、主イエスによって力を与えられ、「主イエス・キリストの名によって」弟子たち自らが病人を癒し、悪霊を屈服させ、追い出すことが出来た。
 既に、主イエスから病気や、目や足などの不具合の癒しを知り、体験していた人々は、主イエスの名前によって、弟子たちが目を見張る働きを実行したのに驚き、讃美し、弟子たちと一緒に巡り歩いたのが伝わってきます。
 「18イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」
 主は、弟子たちから離れていても実際の動きを知っておられた。十二人の時よりも、ずっと安心し、聖霊によって支えられ、活動する弟子たちを御覧になっていた。
 サタンは悪魔です。悪魔が、自分の下にいる悪霊たちの様子を知り、主イエスの名による活動が華々しく72人もの弟子たちによって繰り広げられ、弟子たちが勢いに乗って自分自身にも向かってくる様子に、天から落ちるまでに驚き、恐れたのが主イエスに直接伝わっていました。
 「19蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」
 第一回の伝道旅行で十二人の弟子たちに「悪霊に勝つ権威」は与えられ、力と確信をもって送り出されたはずです。しかし、あの時は弟子たちにはまだ恐れがあった。主はご存知でマタイによる福音書では、様々な細かい指示や注意をされていました。
 けれども、第二回の伝道旅行は弟子たちの信仰が高められ、弟子たちに力がわき、自信をもってサタンにさえ対抗する働きができた。
 この働きは、イエス・キリストの権威が土台にあります。弱かった弟子たちが主によって少しづつ力を加えられ、それによって聖霊の力も増し、人々に対しする福音が実際の力をもって伝えられたことが見られます。
 主イエスは、喜んで口々に報告する弟子たちを見て、言われる。
20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
 これは、弟子たち自身の自覚、弟子たちにとって見た目ではなく、人間としての根本についての自覚を注目するように言われている言葉です。
 「悪霊が従う、悪霊が服従させられる力」は、この時点ではイエス・キリストからの力。それが、有効に用いられたのは弟子たち一人一人の信仰によります。
 イエス・キリストから見られると、弟子たちは、この段階では「イエス・キリストの絶対的な信仰」に「オンブされ、ダッコされていた」と言った方が近い。
 だから、主イエスの力によってなされた働きを「自分自身で成し遂げられた」と、思いこみ、舞い上がるなと主イエスは釘を刺される。実際、各自の信仰で自立する時は近づいています。
 主イエスから見て、肝心なことは「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
と言われた。言い換えれば、ここに、弟子が信仰を持って従い、「主イエスからの力を発揮できた現実があり、これが、天に、神の国に記される。」
 これが記されるのは「永遠の命に記されるデータ」として永遠の存在になるものだと指摘された。
 実際、信仰による働きはどれほどの立場や仕事に関わる保証や証明よりも高い不滅の記録です。
 どれほどの有力企業や公的組織でも社長や官僚のトップでも「退職」「退任」があり、経歴の終了があります。天に記された記録は、実にかけがえがない、あり得ないデータの存続です。
 「21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」

 ここが、初めに言ったルカによる福音書で、イエス・キリストご自身の「喜び」が記されているただ一つの箇所です。
 「ただ一つの聖書個所」だけではありません。むしろここは、主イエスご自身が「聖霊によってよろこびあふれ」と言われたことが注目されます。いや、注目というのは適切な言い方ではありません。「驚き、魂消るべき言葉」です。
 これを言われたのは、三位一体の独り子主イエス。
 神様であり、聖霊を発信されるイエス・キリストが、「ご自身から、ご自身の内部から」ではなく、「聖霊によって⇒喜びにあふれて」と、はっきり言われ、ハッキリ聖書に記されている。この歴史的事実がここにある。
 わたしは「大げさに言う」癖があります。オッチョコチョイで「誇大・拡張」の気があることは自覚しています。けれど、この言葉は主イエスが言われ、キチンと記されています。ギリシャ語直訳でも「聖霊によって彼は喜んだ」です。
 主イエスの「聖霊による喜び」は、一体何を指されているのでしょうか。主が21節で言われた「これらのこと」とは何を、どの言葉を指すのか?
 冷静な、客観的な見方をすれば、「弟子たちによる伝道」「その成功」でしょう。その奥には、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と弟子たちが報告した言葉があります。
 更に、弟子の報告はもっと大きな歴史の転換、「父なる神と神の子イエスの現実」を指している。
 「メシア=キリスト」は旧約で預言されている救いです。けれども、旧約には「神の子」という表現も理解もありません。「神の国」という言葉もありません。
 この事実を重視するとき、主イエスご自身の認識、三位一体の神を含む現実認識の人間世界における大きな転換の前ぶれが現れてきます。旧約による理解ではどれほどイザヤ預言を重視しても「神の子イエス」が理解され得ない。「神の子イエス」を理解できないと十字架の贖い、和解の理解不可能です。
 このように、拡大すると、更に21節が注目されます。
 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」
 十二弟子も、72人の弟子も、旧約聖書は子どもの頃から暗唱出来るほど読んでいたはずです。しかし、聖書学者、律法学者には遠く及びません。けれども、これらの弟子たちはイエス・キリストを実際に知り、父なる神と主イエスとの関係を聞き、理解しています。
 弟子たちが伝道で気付いた「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します」という、「主イエスこそ神の子」の理解は、学者から見ると「幼子的理解」です。しかし、ここにこそ父なる神と子なるイエスの具体的な関係が公けに、具体的に現れている。弟子たちの理解は、幼児的でも「真実の理解」「主イエスは、神の独り子。キリストです」と全世界に告げ、告白できる理解です。
 主イエスが「聖霊によって喜んだ」のは、「主イエスこそ神の子キリスト」という、弟子たちが福音を語る現実の中で確認されたこと。この現実にによる父なる神と、聖霊による喜びからです。それは、福音伝道が実際に人間イエスによって、更にイエスの弟子たちによって歩み出している喜びです。
 次に続く主イエスの言葉が、これを証明しています
22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
 「子が示そうと思う者」は、キリストを信じるすべての人間です。イエス・キリストはご自分が「父から遣わされ、派遣された者」である認識を越え、ご自身が主体となり父が創造されたこの世界に正面から取組まれると、はっきり現わされた。「この言葉は、全人類に向けられた宣言」です。
10・23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。
 この言葉には聖霊による喜びが滲み出しています。弟子たちも共に喜び、広がり続ける喜び。
10・24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」」
 今日の聖書個所に記されている記事は、喜びだけでななく、イエス・キリストご自身にとってとても大切な、画期的とさえ言える主ご自身の確認と、神の国に向かう喜びが言葉のうちにあふれています。
 ここには、この聖書箇所には「弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた」言葉が、「歴史を越えて今」、ここにいる私たちにも語られた。
 主イエス・キリストの聖霊による喜びの言葉。
 多くの預言者や王たちだけでなく、希望を失い、悲惨の中に救いを待ち望む多くの人々にかけられている救いの実現を約束する言葉です。
 イエス・キリストによって動き始めたキリストの、教会に向うイエスを頭とする教団は、人間の救いと、神の国の永遠に続く「生きる」喜びを土台にし、基礎として立てられようとしています。困難が、苦しみが、十字架が、和解がこの先にあります。けれど、既に現在にまでつながり、喜びは今、私たちに与えられています。
  祈り   讃美歌(21)271「喜びは胸に」