説教「ここに愛があります」

20161225日(日)クリスマス主日礼拝                  
 説 教  「ここに愛があります」
                
   牧師 武井恵一 
聖書 ヨハネの手紙一4816
讃美歌(21)245聖しこの夜」、263「荒野の果てに」、256「馬ぶねのかたえに」,728883-1

 クリスマスの日曜日になりました。ユダヤ・イスラエルでは夕暮れと共に一日が始まりますから、正しく言えば、夕べのクリスマス・キャンドルサービスは、前夜式ではなくて最初のクリスマス礼拝」になります。歌声の余韻が今も残っています。
 昨夜のクリスマス・イヴ礼拝では、いつも同じ個所のメッセージを変えて、イエス・キリストのお母さん、マリアさまの讃歌をとりあげ、終りには「我が心は」のマニフィカートを歌いました。
 これに合わせる形で、クリスマス礼拝のメッセージは、イエス・キリストの御降誕物語から少し離れ、ヨハネの手紙一から「クリスマスの真実」を取りあげます。
 「愛する者たち、神が私たちを愛して、わたしたちが生きるようになるため、独り子を世にお遣わしになりました。
ここに愛があります。
 ……私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

 言葉の順序を入れ替えています。
 クリスマスは、神様の愛が実際に人間に向かって現わされた。その具体的な現れの日です。
 わたしたちは「神が愛であること」を知っています。
 今日とりあげたヨハネの手紙一に「神は愛です」(4章16節)とはっきり記されている言葉が、世界中の人々に知られ、キリスト教をほとんど知らない日本人にも伝えられています。
 最後の福音書、『ヨハネによる福音書』を世に現わしたヨハネと、三通のヨハネの手紙を書いたヨハネが同じ使徒ヨハネではないと言う理解は聖書の様々な研究によってほぼ正しいとされていますが。これらの「ヨハネ文書」が、地中海沿岸の「ヨハネ教会」によって記されたのは間違いないようです。
 そして、今日取上げている「ヨハネ第一の手紙」は、ヨハネ教会から出された三つの手紙を含め、最後のヨハネ文書と認められています。
 普通、福音書が書かれ、第一の手紙、第二の……だと考えますが、聖書学者はヨハネ教会での出来事を調べてこう主張し、この説が有力とされる。
 別な言い方をすれば、各地の初代教会、ヨハネ教会でも起った様々な問題。ユダヤ教とユダヤ人キリスト者、そして、異邦人キリスト者。そこから起る「異端――正統な福音をどう守るか」の対立と、話合いが長く続けられたと記されています。これは、むしろ当然です。
 ヨハネ教会では、そのまとめとして、最後にヨハネの手紙一がまとめられたと言われ、この結果は。神様の愛と、愛によって教会が成り立ち、信仰が生き続いている歴史を私たちに証明しています。
 ヨハネの手紙は「」を柱としており、教会の中に「真実・愛」をめぐる信仰の対立があったことは、様々な資料から見られます。
 「ヨハネ教会が様々な波風に苦しみながら、愛によって生かされていた」ことは、このヨハネの手紙一がまとめとして現わさたことで、わたしたちに伝わってきます。
 先ほどは言葉の順序を入れ替えましたので、今度は新共同訳に記されている順序に従って、ひとことづつ読み解いて進みましょう。

 この手紙には「神は愛です」と言い切る信仰の力があり、この言葉を受け容れられ、聖書にあらわされた神様の御心が熱く記されています。
 4章7節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する人は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」
 こう言い切っている確信は、どこから得られたのか。
 わたしたち自身の教会で、いや、日本の一般的な教会で、ここに書かれている呼びかけをし、愛と神について断言する、断言できる教会はかなりあると推測します。
 この言葉は、ヨハネ教会に大きな、激しい論争が実際にあったことを物語っており、初めは、愛についての質問と、語る者への積極的な疑問。あるいは、個人的な反発もあったと見られます。
 「ヨハネ教会」と言っているのは、主イエスが十字架に架けられた苦しみの中で、母マリアを「愛する弟子――ヨハネにゆだねました」根拠から。ヨハネによる福音書19章26節27節に記されています。
 この記事は、ヨハネだけしか書けません。
 けれども、「十字架のそばには、母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」と、第三者の実名が記されています。ヨハネが勝手にこの名を書くのはあり得ません。
 ヨハネは、実際に母マリアを引取られた。
 以前、わたしがトルコの観光地パムッカレと、そこに残る古代都市ヒエラポリス遺跡――ヒエラポリスは、新共同約聖書コロサイの信徒への手紙4章13節に記されています――を訪れた時、その近くにヨハネ教会とマリア教会があるとの見聞をお話ししました(ここが、ヨハネの手紙のヨハネ教会かどうかは知りません。為念)。
 少なくとも、聖書記事と、ヒエラポリス遺跡は事実です。
 ヨハネが、どれほど主イエスを師と慕い、愛していたかは四福音書でご存じでしょう。このことによってだけでも、「ヨハネ第一の手紙」は、ヨハネ教会の真実を現わしていると確認できます。
 改めて、これらを聖書で実際に感じながら、「これは、――聖書記事も、手紙に書かれていることも凄いことだ」と実感しています。
 ヨハネの手紙一、4章7節から読み、解きましょう。

 7「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」
 この言葉も激しく大胆です。何の根拠もなしにこう言うならば「この人、おかしいんじゃないの」と言われても不思議はありません。「愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」これは、教会全体をあげて激しい「愛についての論争」を繰り返した背景が目に浮かびます。
 「愛についての論争」は使徒ヨハネによる、実際の主イエスの言葉と活動、父なる神との関係などによって進められたはずです。けれども、使徒ヨハネによる一方的な、決定的発言は強行されていなかったのは確かです。
 もし、ヨハネがそうしたなら、激しい論争はあり得ません。イエス・キリストを信じた教会員は、それぞれの信仰によって体験した「聖霊の働き」を確信し、「自らの理解を臆せずに使徒ヨハネや教会員にブッツケ」、他の、やはり熱くなっている教会員や長老と論じあった。
 そして、この言葉が結晶された。
 ここにある、この言葉が「指摘している」のではなく、「提案している」ことからも明らかです。
 8「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
 これは、大胆を通り越しています。確信をもって断言しています。提案でさえもない。この言葉がわたしたちに伝わってくる背景なしで、実際の熱を伴わないで会話の中で言われたら、キリスト者でも言った者の正気を疑うでしょう。
 でも、この言葉は違和感なく受け止められます。読む者、聞く者が圧倒されるからです。
 9「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」
 この言葉は「福音」そのもの。
 10「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 ただし、この「福音」は、こう言っただけでは、どれほど迫力があっても一般の人々に伝わりにくい。「神は、独り子を世にお遣わしになり」とは、何のことなのか? 「わたしたちの罪を償ういけにえとは何か?これが分らないと、福音がわからない。」
 これは、わたしたちキリストを信じる者が、まわりの人々に「福音」を伝える上で、難しさを実感するところです。「イエス・キリストの父なる神からの派遣」とは、具体的に何を言っているのか。
 「わたしたちの罪」そして「償う生け贄」は、一言や一回、二回では何のことか解らない。
 しかし、ここで、ヨハネの手紙は思いがけない方向に進みます。
 11「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
 呼びかけは「愛する者たち」に戻りました。7節の呼びかけは一般的な言葉としての呼びかけですが、ここでは8節の「神は愛だからです」からの衝撃に続けて「わたしたちも互いに愛し合うべきです。」と更に呼びかけます。
 具体的に考えると、この呼びかけは、なまじの解説や、説明よりも力があります。「理屈や言葉ではない、実際に自分が愛し合えば分る」と、いっそう現実的にぶっつける。
 夢見るような、「恋愛で、愛し合う」ではありません。でも、疑問が湧きます。「愛し合う――愛する」とは、具体的にどうすることなのか。これは、人間にとって大きな課題です。
 岩手県気仙地方の医師、山浦玄嗣さんは聖書を「ケセン語」に訳しています。そして、「愛」を「大事」と訳しました。ルカ福音書6章27節「敵を愛し」は「敵(カタキ)だっても大事(デァジ)にスロ」です。
 当てはまらないところもあるようですが、「愛」の言い換えとして意味は通じます。
 現実に「お互いを『大事』にすれば」、少なくとも伝わる。
 12「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
 確かに「神を見た者」はいません。
 これも大胆な、乱暴とさえ言える言葉です「わたしたちが互いに愛しあう」が一種の条件になっています。一般の方には分りにくい。
 13から15節は省略します。そして、16節は一般の方にも分る言葉で締めくくられる。私は、ここが一番大事。「愛の」ポイントとが優しく言われています。
 16「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」
 先ほども「神は愛だからです」と8節で書かれていました。同じような言葉ですが、ここでは「神は愛です」と単純・明瞭に言います。
 現代社会で、この言葉はまさしく「キャッチ・フレーズ」です。多くの人々は「愛」を求めています。でも、その多くは「愛だからです」という解説風の言葉ではなく、「神は愛です」が、心に入り、困難や苦しみの時「神は愛」にこそ、求め、自分自身を向けるのではないでしょうか。
 それは、わたしたちも同じです。私たちに聖霊の力が与えられ、私たちは「聖霊に支えられている」と知りつつ、現実に当てはめることは難しい。聖霊の働きも見えにくい。困難や苦しみはキリストを信じる者にも山のように押し寄せる。
 そのとき、「神は愛です」を心に意識し、「神の愛に自分をゆだねる」。そこに、恵みと愛を見いだす。
 これが、私たちへの最も素晴らしいクリスマスプレゼントです。

  祈り   讃美歌(21)256「馬ぶねのかたえに」、