説教「目を覚まして、2016.12.18

20161218(日)東田礼拝
     「神の国連続講解 説教
40」                  
説教「目を覚まして
          武井惠一牧師

聖書 ルカによる福音書123548(132-133
讃美歌(21)55「人となりたる」,241「来たり給え」
472「朝毎に主は目を」, 8891-2「神を讃美し」

 クリスマスはいよいよ来週に近づきました。クリスマスの準備が進められています。私たち豊橋東田教会にとって「こどものたのしいクリスマス」は教会全体にとって大切な行事ですから、今年は来られる子どもに合わせて、異例の日程ですが12月27日にいたしました。
 クリスマスの「アドベント」は、先週も言いましたが、「主イエスが再び私たちのところに来られる」、再臨のイエス・キリストを待ち望む時、クリスマスを迎える時です。
 今日の礼拝説教は再臨の主イエスに会わせて「目を覚まして」をテーマにしました。
 新約聖書には、マタイによる福音書、ルカによる福音書など、四つの福音書があり、同じテーマの話や、同じたとえ話、同じ出来事の記述がかなり沢山あります。

 今日お話しする聖書はいつもの新共同訳聖書ではなく、今までも何度か用いました『日本語対訳ギリシャ語聖書』を用います。一見、たとえ話が中心ですが、実はたとえ話の形を取りつつ、現実の物語です。
 「主が再び来られる」を取りあげ、主イエスの厳しい言葉と状況新共同訳よりずっと厳しく私たちに語られているからです。
 今日の『日本語対訳ギリシャ語聖書』の言葉は全文を週報4頁の「坂の途中から」にいれましたので、聖書朗読からそれを用います。今日の週報4頁をご覧ください。
 今日の聖書個所は新共同訳でも唐突に、いきなり「あなたがたの腰に帯をし、そして、ともし火を灯しなさい」で始まります。
 この後、週報の引用にミスがあり、37節の後半は「まことに、あなた方に私は言う、彼は(自身)帯を締め、そして彼らを席に着かせそして近づいて彼らに仕える。」と記されています。
 今日の箇所は、主イエス・キリストご自身から、このように弟子たちに語る意識が明確に現れているのに注目しましょう。35節の最初に言われた言葉は、37節で「主人自身も同じようにしており、主人の意識の重さを現わしています。弟子――奴隷だけのことではありません。
 ルカ福音書での平地の説教後半とも言える弟子たちへの教えと指示が、72人の弟子を神の国宣教に派遣し、弟子たちが成功して喜んで帰って来た記事の後から語られ、すぐ前は「思い悩むな――『ただ、神の国を求めなさい』の頂点」に至ったところも、今日の前提と受止めて下さい。
 「神の国」は主イエスが私たち人間の世界に派遣された目的であり、使命です。その、イエス・キリストにとって第一の重要なことを弟子たちに、群衆に正面から告げられた。この箇所は、主イエスと、私たちにとって非常に注目されます。
 更に、ギリシャ語逐語訳だと、主イエスの意気込みが伝わってくる迫力があります。
 35節から。「35「あなたがたの腰(複)に帯をし、そしてともし火(複)をともしていなさい。
36そして、あなた方は婚宴(複)から(主人が)帰るとき、(彼が)来てそして、(戸を)たたくとき、すぐに彼のために開けようと自分自身の主を待っている人々と等しくあれ。」
 主イエスは、ここでご自分を「婚宴に行って遅く帰ってくる主人になぞらえ」ています。
 「12:37 主が来て目を覚ましているのを見いだすところのそれらの奴隷らは幸いである。まことに、あなた方に私は言う、12:37 主が来て目を覚ましているのを見いだすところのそれらの奴隷らは幸いである。まことに、あなた方に私は言う、彼は(自身)帯を締め、そして彼らを席に着かせそして近づいて彼らに仕える。」ここに記されているのは新約聖書直訳です。ローマ帝国では捕虜となったり、負債のために奴隷とされた有能な人々が「奴隷」として主人に仕えるのは普通のことでした。様々な理由で「売られ」て奴隷になった 人々も大勢いましたが、中には自由な人々以上に高く評価される奴隷も多くいました。
 ここに記されているのは新約聖書直訳です。ローマ帝国では捕虜となったり、負債のために奴隷とされた有能な人々が「奴隷」として主人に仕えるのは普通のことでした。様々な理由で「売られ」て奴隷になった 人々も大勢いましたが、中には自由な人々以上に高く評価される奴隷も多くいました。
 奴隷は、古代ローマ帝国下の国々ではごく普通のことで、聖書で「僕―しもべ」とされている人は、皆、奴隷を意味します。
 ローマ帝国に属する社会状況全体も「奴隷」によって成り立っていました。ガリラヤ地方などの「辺境」はむしろ例外で、ガリラヤ周辺の人々が「地の民」と言われていたのはユダヤ社会、ユダヤ教に対する独特の立場を持ち、奴隷を用いないことから特別視されていと思われます。
 奴隷はむしろ彼らより社会的地位が高かったのです。ユダヤでも、金銭的な「売買」は、担えない負債の代償などでなされたでしょう。主イエスと弟子たちなどの「主従関係」も、むしろ「主人と奴隷の関係」に近いものと見られます。「自由」はあっても、それを社会で生かすことは、ほとんどあり得ません。
 だから36節で「あなた方は婚宴(複)から(主人が)帰るとき(彼が)来てそして、(戸を)たたくとき、すぐに彼のために開けようと、自分自身の主を待っている人々と等しくあれ。」は、この関係に立っていわれました。
 主イエスがここで「あなた方」と言っているのは「弟子たち」です。そして、弟子たちは主人が帰ってきて戸を叩くとき、「自分自身の=奴隷自身の主、主人」を待っている人々と同じようにしなさい。「あなた方は彼らと同じだと意識しなさい。」と言われた。
 主イエスはハッキリこのような社会での関係を知っていました。しかも、ユダヤ・イスラエル社会はそれがエルサレム神殿・ユダヤ教の支配のもとで、がんじがらめになっていた。
 主イエス・キリストはそれを良く知っておられた。
 「37 主が来て、目を覚ましているのを見いだすところの、それらの奴隷らは幸いである。まことに、あなた方に私は言う、彼の(主人の)持ち物すべての上に彼を立てると。」
 それは、目覚ましいことです。同じ奴隷の身分であっても、同じ身分だからこそ、そうなると「立場の違い」が大きくなります。生活すべてにわたって、それは作用します。
 「38 また、もし第二(時)に、またもし、第三(時)に彼か来る、そして、そのように見いだすなら、それら(奴隷)は幸いである。」
 時間についてはローマ帝国支配下でローマの時間を使っていたと考えられ、夜も昼もそれぞれ4分割(1日は8分割)され、第二時は夜の9時、第3時は夜12時と見られますから、「主人が夜中の12時に来る(帰宅する)とき、準備していたのを見られた奴隷は幸い」、と主は言われた。
 「39しかし、このことをあなたな知れ。家の主人がいずれの時に盗人が来るかを知っているならば、彼の家が穴をあけられ(押し入られることを)彼は許さないだろう。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」
 このような言葉は、たとえ話とも見られます。
 けれど、ここで注意したいのは主イエスが何の意図をもってこれを弟子たしに語っているかです。主は奴隷たちについて言っているが、何のために、何を意図して言われているのか。
 「40それで、あなた方は用意(複)せよ。あなた方が思わない時に人の子はくるから。」
 主イエスはここでハッキリと「人の子――再臨のイエス・キリストが来るから」と言われた。しかも、弟子たちに向かって「それで、あなた方は色々用意せよ」と言われた。
 これも大切なところなので指摘しましょう。「いつ来るか分からない。けれど、わたしは来る――あなた方が思わない時に」。
 ここで、主は「わたしは来る」と言われた。そして、「わたしは来る」とは、何を意味していますか。 主は十字架の上で父なる神に捨てられ、和解を成し遂げ、神の国をもたらされた。ここで、再臨を告げられています。
 主イエスの復活と再臨は「世界中、歴史のすべてにわたる『公告』」です。
 主は、天に昇られ、神の国を「完成に向けて」聖霊を用いて進められています。このような、私たちに示された理解から「イエス・キリストが、人間世界に再臨されるのは、神の国完成の時」ということができます。誰もが知りたがっている「時の終わり」。
 この時、ずっと黙って聞いていたぺトロが発言しました。
 「41 しかし、ペトロは言った、「主よ、私たちに向かってこのたとえを言うのか。あるいはまた、皆に向かってか。」
 弟子たちと一緒に群衆もいたでしょう。そこで、ペトロは「これは、皆に――群衆に、全体に人に言っているのでしょう」、と主イエスに尋ねた。「群衆に、人々に言った」と確認したかった。
 「42そこで、 主は言った。『それで、時に応じて食糧の分け前を与えるために彼の召使いらの上に主人が立てようとするところの忠実なさとい家令はだれであるか。12:43 彼の主人が来てこのようにしていることを見いだすところの、その奴隷は幸いである。12:44 まことに、あなた方にわたしは言う。彼の持ち物すべての上に、彼を立てると。』」
 主は、質問に直接応えるのでなく、逆にペトロへの質問で答えました。ペトロに対する主の評価を告げ、ペトロ自身に、また、弟子たち自身に考えさせる答えです。
 主イエスは弟子たち全体ではなくペトロに「彼の召使いらの上に主人が立てようとするところの忠実な さとい家令はだれか」と、尋ねられた。この言葉は、口には出していないものの、「忠実な、さとい家令」はペトロだと指しています。
 家令は「もと、華族の実務、会計を処理し使用人を監督」と辞書にあります。
 しかも、続いて、彼の主人、言い換えれば主イエスご自身の考えを示し、「家令としてペトロに委ね、ペトロを立てる」と言われました。これは、この場面では最上のほめ言葉と言えます。
 ここでペテロのことを思い返し、本当に主イエスはペトロを指名したのか、と疑問に思う方もおられるでしょう。その疑問ももっともです。けれど、このように受けとめるのはイエス・キリストのお考えに沿っていると思います。
 私は、ここで主イエスがこのように言われたのは、ペトロを通して――歴史の中にいてキリスト者集団、教会を支えてきた人々すべてにこのように言われたと覚えます。
 「45 しかし、その奴隷が心のうちに、わたしの主人が来るのが遅いと言って、そして、奴隷らと、婦人の奴隷らを叩き、食べ、また飲み、また酔い始めるならば、46 その奴隷の主人は予期しないところの日に、また知らないところの時に来る。そして、彼を切り刻み、そして、彼の場(席)を不忠実な者らと共に割り当てる。
12:47それで、彼の主人の意志を知って、そして、備えをしない、あるいは、意志に従って行わないその奴隷は、多く打たれる。
12:48 しかし、知らないで、しかし鞭(複)に値する(複)ことをした者は、打たれても少しで済む。また、すべて多く与えられたところの者は、彼から多く求められる。、多く彼ら(神)が任せたところの者は、彼にさらに多く、彼ら(神)は求める。』」
 これは主イエスが、歴史の中にいる私たちキリスト者全体に向かってハッキリと言われていることです。たとえ話ではありません。例として出されていることは、一人一人が自分自身をこの主イエスの言葉にあわせて考えれば分ります。
 しかも主は、48節で「知らないで、しかし、鞭打ちに値するような事をしてしまった者」に対しても、安心できる道を用意して下さった。
 世の終わりはいつ来るか分かりません。主イエス・キリストは今日わたしたちにこの重大なことを告げられました。私たちはこれを心に刻み、目を覚ましていましょう。主が再臨される日を待ちましょう。
 祈祷 讃美歌472「朝毎に主は目を覚まさせ」