説教「イエス・キリスト、エルサレム入場と宮浄め」2016.11.20

20161120日(日)東田礼拝「神の国連続講解説教36」                  
説 教
「イエス・キリストエルサレム入城と清め
                    武井惠一牧師

聖書 ルカによる福音書183648(147-148
讃美歌(21) 51「御言葉もて主よ」,307「ダビデの子」、
309「贖いの主」,8838×2「グロリア

 今日の箇所は、イエス・キリストのエルサレム入城です。今日の場
面でエルサレムに入城されるイエス・キリストはクリスマスに母マリ
アから生まれた人間イエスです。

 イエス・キリストは12月25日にエルサレムに近いベツレヘムという
小さな町で人間の赤ちゃんとして生まれました。けれど、イエス・キ
リストという存在はもともと「人間」ではなく、神様と共にいて、全
世界、宇宙全体を無の混沌から創造された神様の独り子です。

 今日は天地を造られた主なる神様からはじめます。
 天地宇宙を創られた神様は、人間が初めから神に従わず、罪と悪の
方へどんどん落ち込むのを天から見られ、「このままでは、人間全部
が滅亡する。滅び去るしかない」と判断され、人間に救いの道を与え
る大計画を立てられました。

 大計画の始まりは神様の独り子イエス・キリストを「人間」として
マリアから誕生させることからでした。

 イエス・キリストは本来ならば全世界の創造主、全宇宙の王である
神様の皇太子です。

 一方、エルサレムは、ただの町ではなく、神様が選ばれたこの世で
の、神様が降られたときにそこに住まわれる王宮、神様の神殿。

 エルサレム神殿を建設したソロモン王は、これを踏まえて、エルサ
レムを首都としてではなく、王宮としてではなく、全体を神殿として、
巨大な城のように建築しました。

 この、神殿であり、城であったエルサレムはバビロンによって滅ぼ
されましたが再建されます。イエス・キリストの時代は元々のエルサ
レム神殿ではなく、建て直されたエルサレム神殿ですが、イエス・キ
リストはこの神殿も「父の家」とされ、特別な意味が与えられていま
した。

 今日の聖書記事は、イエス・キリストが、伝道の一環として、気ま
まにエルサレムに来たのではなく、「父なる神から遣わされたもの、
神によって派遣された神からの王」として入城された。

 すでに、当時のエルサレムに住む人々は、「イエスという人は『メ
シア』だと言われている」と知り、

ロバの子に乗ってエルサレム神殿の城域に入る主イエスに対して、自
分の上着を脱いで道に敷き、「神からの王」として迎えました。

 この時、すでにイエス・キリストは「メシア」のしるしとされる
「油注ぎ」をベタニアで受けています。

 それは、「メシア」と言う言葉はヘブライ語で、旧約聖書はヘブラ
イ語で記され、一方、新約聖書はギリシャ語で書かれています。そし
て、ギリシャ語で「メシア」を意味する言葉は「キリスト」です。
救い主を意味し、ヘブライ語でも同じ意味です。イスラエル・ユダヤ
の民は「メシア=キリスト」をずっと長い間待ち望んでいました。

 イエス・キリストへの油注ぎの記事は、マルコによる福音書14章3
節-9節と、ヨハネによる福音書の12章1―8節にあります。

 そこでは主イエスの「葬りの準備のため」と記されていますが、
イエス・キリストが神様から人間のために遣わされた大きな神の御
計画から見ると、「十字架の死、葬りの準備」は単に十字架の死を
目前にしている主イエスご自身にとっての「葬りの準備」ではあり
ません。

 主なる神の御計画では、イエス・キリストが「神の国の王」とさ
れる前の段階にあたり、「神に選ばれた者」としての「油注ぎ」が
なされたのです。

 それだけではありません。イエス・キリストの即位、王としての
戴冠は、ピラトの死刑判決の後、ローマ兵によって造られた茨の冠
が、主イエスにかぶせられ、これが戴冠です。(マルコ福音書15章
16-20節。マタイ福音書27章1-2節。ヨハネ福音書19章2-3節)。

 更に、今日、取上げたイエス・キリストのエルサレム入城はもう
一つの預言の成就、実現でもあります。

 今日の聖書箇所の前に、主イエスが弟子たちに命じて実現した
「子ろば」の事です。

 今日の聖書は「子ろば」のところから朗読すると、あまりに長くな
るので割愛しましたが、旧約の預言から今日の聖書に繋がっていま
す。

 順序からすると、先ほど読んだエルサレム入城の前です。147頁
の下の段「エルサレムに迎えられる」と小見出しがある19章38節か
ら。改めて朗読します。

28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレム
に上って行かれた。29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふも
とにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使い
に出そうとして、30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに
入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見
つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31 もし、だれかが、
『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言い
なさい。」

32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであっ
た。33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子
ろばをほどくのか」と言った。

34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の
服をかけ、イエスをお乗せした。」


 ここから先は、礼拝で朗読し、お話したところです。
 子ろばのことは、2014年の12月7日説教で採り上げその時、旧約
聖書にあるゼカリヤの預言も取りあげました。もう一度採り上げま
す。


 旧約聖書1488頁9章。小見出しが「諸国民の裁きとイスラエルの
救い」で、イスラエル周辺の異教の地が主なる神によって撃たれイ
スラエルの救いがなされるところです。

 9章の8節に「そのとき、わたしは我が家のために見張りをおいて
出入りを取締る。もはや、圧迫するものが彼らに向かって進んでく
ることは無い。今やわたしがこの目で見守っているからだ。」とあ
り、次の9節が今日の主イエスに関係します。

 「9娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ歓呼の声をあげよ。
/見よ、あなたの王が来る/彼は神に従い、勝利を与えられた者/
高ぶることなく、ろばに乗ってくる/雌ろばの子であるロバに乗っ
て。10わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を断つ。
/戦いの弓は断たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は
海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 大きなスケールの預言です。
 この預言は、フィリピの信徒への手紙でパウロによって記されて
いる「キリストの道の歌」とも呼ばれるイエス・キリストの「小福
音」に重なります

 もう、何度も読みましたが、主イエスのエルサレム入城の基本的
な背景でもありますので、もう一度読みます。

 新約聖書、363頁上の段。短く、2章6節から8節だけ。
 「6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であること
に固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分にな
り、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、
死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」。


 アレコレ引用したり、採り上げる順序を逆にしたり、聞いていて
混乱された方もおられるでしょう。

 今日の聖書の言葉と意味について少しまとめます。
 イエス・キリストの「エルサレム入城は、神様の大計画」の大き
な柱です。

 主イエスはご自身で三度弟子たちにご自分の死、残酷な十字架刑
の死と復活を予告しています。それが、現実となる日が迫っていた。

 主イエスのエルサレム入城は「神の国の王」が、人々の前に「王と
して登場する」出来事です。ローマ兵による茨の冠りの戴冠も、その
前にベタニアでなされた「メシアとしての油注ぎ」も同じです。

 更に、このあと話すエルサレム神殿での「宮清め」は、イエス・
キリストが主なる神からの権威をもって「神の家」である神殿が「
神殿ユダヤ教」として「偽善に覆われている」ことを非難し、「や
がて、退ける」ことを顕している象徴と言えるでしょう。

 歴史は、この神殿ユダヤ教がエルサレム神殿と共に、ユダヤ・イ
スラエル国家と共に、破壊され、滅亡した事実を明らかにしています。

 現在のユダヤ教は、エルサレム神殿が廃墟になった後、ヤムニヤ会
議で「聖書(旧約)・律法」などの文書による律法の宗教になり、現在
に至っています。

 主イエスは「ご自分が、天地創造以来積み重ねられてきた人間全体
の重荷を負い。この後、大きな苦しみと痛み、自身ではどうに出来な
い破棄を身に受けること。また、同時に、人間存在全体から、どれほ
どの期待を負っているか」を知られておられた。

 主イエスは、エルサレム入城から、十字架に至り、「人間としての
イエス・キリストが、人間の創造以来積み重ねられた罪を贖い、三位
一体の神によって赦され」する。「積み重ねられた神の預言を成就し、
神の国を来たらせる」。これらを実現・成就する、ただ一人の人間と
自覚されていた。

 この自覚は、エルサレム神殿ユダヤ教が偽善を重ね、更に罪を上塗
りしている神殿ユダヤ教を非難し、実際の状況をあからさまにする働
きも含まれていました。

 ユダヤ教の礼拝は、ソロモンがエルサレム神殿を建設し、主なる神
への礼拝はこの神殿で行うと定めた時から、正式な名前ではありませ
んが「神殿ユダヤ教」です。

 しかし、年月を経て、神殿ユダヤ教は腐敗します。旧約聖書の末尾、
マラキ書で指摘されている現実。3章8節(旧約1500頁にこうあります。

 「人は神を偽りうるか。/あなたたちは私を偽っていながら/ どの
ようにあなたを偽っていますか、 と言う。/それは、十分の一の献
げ物と/献納物においてである。」

 具体的な偽りと腐敗の内容はマラキ書1章7節から2章9節をに記され、
他の箇所にもあります。

 2章初めの「祭司への警告」によって、祭司の腐敗は取り除かれた―
表面だけは。でも、腐敗は祭司・神官によって、偽りを更に欲得の具
に替え、ユダヤ教を信じる神の民を「喰い物するありかた」で一層ひ
どくなっています。

 神殿ユダヤ教の礼拝は「奉げられた犠牲を焼尽くす燔祭」でした。
礼拝のために民が選んで持参した生贄の動物と、献金の銀貨を、司祭
たちが検分し意図的に「悪く、適切でない」と退け、手を結んだ悪徳
商人の店で割高の犠牲動物を買わせる。銀貨も傷や汚れを指摘して退
け、新鋳した銀貨と高額の手数料をとって両替させる。そして、悪徳
商人からの差額をふところに入れていた。

 神殿ユダヤ教が上から下まで腐敗しているこの現場を見、主イエス・
キリストは神殿の境内で商売をしていた人々を追い出し、「わたしの
家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちはそれを
強盗の巣にした。」と、告げました。

 マタイ、マルコ、ヨハネの各福音書では主イエスが台を倒し、両替
人の金を蒔き散らしたことが記されています。この言葉と、実力行使
の伴った叱責は、聖書にしっかりと記録されました。

 ルカ19章47節は「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを
殺そうと謀ったが、どうすることも出来なかった。民衆が皆、夢中に
なってイエスの話に聞き入っていたからである。」と記されています。


 キリスト教は僅か百人程度の弟子集団から教会としての活動をはじ
め、ローマ帝国をキリスト教化し、全世界に広げました。ヨーロッパ
のキリスト教を国教とした国々で「国教」が「教派などによる自由キ
リスト教」となり、大きく信徒数が減った国々もありますが、先日の
世真留教会70周年式では「世界全体のキリスト教人口が30億人を越え
た」と喜びの報告を聞きました。

 日本の福音伝道は停滞しています。私たちは信仰を持ち、成長させ、
神の国の福音を日本で伝えましょう・


 祈祷     讃美歌309「贖いの主に」