説教「へりくだる者」2016.11.13

2016年11月13日(日)東田礼拝「神の国連続講解説教35」                  
説教「へりくだる者」
         
武井惠一牧師
聖書 ルカによる福音書18章9―14節(144頁 )
讃美歌(21)50「御言葉もて主よ」,397「主の教え」、
505「歩ませてください」,88、29「天の御神も」。


 今日の聖書箇所は、今年の初めに選んだ時はあまり深く考えないで
「ここも、神の国に関係しているから」と選んだのですが、実際にこ
のテキストで説教しなければならないとなった時、とても苦痛を感じ
ました。

 「とても、この箇所をお話しできる私ではない」と思わないわけに
は行きません。いつもは、自分自身を意識しないで、時にはとんでも
ない高慢なことをお話ししても中々気が付かない。けれど、今回は色
々な事があり「私こそ『自分は正しい人間だとうぬぼれて』話してい
る」と自覚させられます。

 今日の聖書で語られているファリサイ派のほうが、私自身よりもず
っと義人――ただしい人物だ、と思わないわけにいきません。

 「週に二度断食した」ことは一度もありません。
 主イエスが指摘されていることは、わかります。けれど、わかって
も、私は自分を評価して高ぶっている人間だとしか言えません。主イ
エスの前で、私は取税人には及びもつかず、ファリサイ派の人に遥か
に劣る、うぬぼれ人間だと自覚させられます。

 けれど、「にもかかわらず」私は「主に仕える者」「御言葉を取継
ぐ者」として、教会を守る者として生活している者です。

 そのように自覚させられながら、なお、かつ、出来る限りの自分で、
与えられた働きをしなければありません。

 今日の聖書の言葉を追います。18章9節「自分は正しい人間だとうぬ
ぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを
話された。」

 ここで、主イエスが話されたのは「たとえ」であり、直接的なファ
リサイ派の人々への「非難ではない」ことに注意して下さい。これま
でも、主イエスはファリサイ派の人々の真剣な生き方そのものは評価
されていました。マタイによる福音書の山上の説教にそれが示されて
います。

 マタイ福音書5章17節「律法について」の中の言葉で「20節 言っ
ておくがあなた方の義がファリサイ派の人々の義にまさっていなけれ
ば、あなた方は決して天の国に入ることは出来ない。」


 これは、今日の主イエスのたとえ話をこの言葉に並べると、主イエ
スが「神への姿勢」と「自らの姿勢」を厳しく捉え、この二つ、特に
「主なる神に対する信仰」をこそ大切なものとされていることが見え
てきます。それは「自分自身の在り方を良しとする」ものではあり得
ません。

 18章10-12節「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリ
サイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神
様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯
す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。

18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。
』」

 ここに現れているファリサイ派の人は、主イエスが実際に接して掴
んだ譬えとしての「善きファリサイ派
の人」です。彼自身の在り方は、
主イエスがマタイ福音書5章で言われたファリサイ派の評価に沿うと
見ることが出来ます。

 彼は、初めのところでお話しした「私自身(武井)よりもずっと義
人――ただしい人物だ」と言えます。けれども、この人を主イエスは
「義」において取税人よりも劣る。「取税人の方が『義』として認め
られた」とされました。

 取税人も主イエスの「譬えとして登場した人物」です。
 ここに、主イエス・キリストご自身の「義とは何を指すか」が示さ
れています。このような「主イエスご自身の『譬えによる定義』」は
ここの聖書箇所だけです。

 キリスト教で「神の義」はとても大切です。ここで少しだけ神学の
理解に入りますが「神の義」は「神の正義」と言うよりは「神の正し
いこと」とする方が適切とされます。

 それは「正しいことイコール神様」ではなく、「正しいこと」が
「神様の属性としてある」と理解するからです。

 これは、言い方を逆にしてみると分るでしょう。「神様は正義です」
と決めてしまうと、自動的に「正義は神様です」ということになりま
すが、正義はあくまで「属性」で様々な正義があり、それ自体が「存
在」ではありません。


 ですから、人間が神様によって、また、イエス・キリストによって
「義」とされる「義認」は、人間にとって「正しいとされる」と言う
よりも「信仰によって――『義とされる』」、神様との関係が「正し
いこと」とされる。「神の義では『信仰』がその中心」になります。


 主イエスの譬で、取税人は自分自身が「立派な、神様に正しいとさ
れる者」とはとても言えない現実を、そのまま「信仰」によって祈り
ました。「神様がおられ、取税人である私のありのままを知っていて
くださる」と言う信仰が、神様によって「正しいこと」とされた。

 一方のファリサイ派の人は「自分が正しいあり方の人間」「神様
に認められて当然」と祈りました。それはファリサイ派の人自身の
認識にすぎず、神様への信仰よりも自分自身の認識なので、「義」と
は認められなかったのです。

 新共同訳聖書では、この後「子どもを祝福する」と別な小見出し
がついて、違う記事に見えますが、この場面は写本原典では17章11
節から続き、また、この後の「金持ちの議員」につながっています。

 次のところは15節「そして、彼らに。触るために、」からですが、
新共同訳では「
15イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子ま
でも連れて来た。弟子たちはこれを見て叱った。」から。

 当然ですが、主イエスが語られた「ファリサイ派の人々と徴税人」
に続きます。

 次の「イエスに触れていただくために」というのは、当時のイス
ラエルの習慣として赤ん坊の初めての誕生日に母親が名前の知れて
いるラビ(教師)のところへその乳幼児を連れて行き祝福を受けさ
せるのが一般的で、主イエスも「高名なラビ」とされ、母親たちが
主イエスに触れてもらいに来ていました。

 みな、主イエスが話している間ずっと待っていた。しかし、弟子
たちにとってこの場所は主イエス・キリストと一緒にエルサレムに
向かう途中です。なるべくなら、先を急ぎたい。

 それで、弟子たちは集まった母親を叱った。
 「16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。

 こどもの教会では「イエス様は子どもが大好きです」という言葉
が、どこの地方でもほとんど決まり文句のように用いられている
でしょう。

 けれど、この場面でハッキリしていることはイエス・キリスト
が「子どもが大好き」かどうかは別にして「子どもは大切な『神
の国』の者と言う意識が『大好き』よりも大きく主イエスの中に
あった」という実情がここに記されています。

 これは明らかにい「好き嫌い」よりも主イエスに取って大切なこ
とだ、と言えます。

 私たちにとってこの記事による証言は見逃しにできません。
「神の国はこのような者たちのものである」とは、何を指して言
われているのか。

 マタイによる福音書18章1節以下に「天の国でいちばん偉い者」
の小見出しで、短い子どもの記事があります。(新約34頁)。弟子
たちが「いったい誰が、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質
問したところです。

 「2そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せて、3言われた。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、
決して天の国に入ることはできない。
4自分を低くして、この子供の
ようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
5わたしの名のために
このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるので
ある。」

 ここでは「誰が、天の国でいちばん偉いのでしょう」の問から始
まっていますが、主イエスの答えは第一に「偉いのか」ではなく
「心を入れ替えて子供のようにならなければ――決して天国に入れ
ない」です。 

 そして、第二は「自分を低くして、この子供のようになる人が、
天の国でいちばん偉いのだ」と、弟子の質問に応えました。

 主イエスの第一と第二の答えはつながっていると見られます。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ」と言われたのは、4
節の「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいち
ばん偉いのだ」

がその内容と見てよいでしょう。
 これは、今日の聖書箇所でのファリサイ派の人と、取税人にもつ
ながります。

 第三の答え「5わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入
れる者は、わたしを受け入れるのである。」は、弟子たちの質問か
ら離れ、私たち聖書を読む者全体への指摘で、また、命令でもある
と受けとめられます。

 この言葉は、ルカによる福音書18章で残っている言葉「はっきり
言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決し
てそこに入ることはできない。」とのつながりが明らか見えます。

 このように、主イエスの言葉をたどってみますと、最初の「ファ
リサイ派の人と取税人」から、「子どもを祝福する」、マタイ福音
書の「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいち
ばん偉い」そして「子供のようにならなければ、決して天の国に入
ることはできない」、「わたしの名のためにこのような一人の子供
を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と、今日お話し
したことが一つの流れにまとまります。

 子供と神の国のかかわりが色々ありましたが、全体で見ますと「取
税人が義とされる」、「信仰によって――『義とされる』」ことが大
きなことで、どこにでも、何にでも関係する基本として、私たちの現
実の生活に関係することを、現在の私たち自身のこととして指し示さ
れました。

 それは、そのことだけではなく、「神の国」と子どもとの関係にお
いて、私たちがどうすればよいのか、
という私たち自身の生き方、生
涯に様々な形でかかわってきます。

 自分を低くして、こどものようになるという指摘は、単純に「子ど
ものようになる」のではなく、取税人のような姿勢、「信じて、率直
に、ありのままで神様に臨む」在り方こそ、天の国、神の国に招かれ、
天の国に入る大きなポイントと受止められる。

 「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、
わたしを受け入れるのである。」は、現代世界での子供の悲惨な情況
が意識されると共に、私たちの側、信じて従う者の側が、子供を受け
入れる者、更には、人々を受け入れ、皆で共に神の国へ向かう者とさ
れることこそ、確実に神の国に入る大通りだと理解できます。

 こう考えると、キリスト教会の伝道は私たちがしなければならない
活動、奉仕、とされるだけではなく、むしろ、私たちが神の国に加え
られるための、私たち自身の働く道と意識できる。

 それは、今日の最初に掲げた「へりくだる者」へ向かう、私たち自
身の道がここにある、とハッキリ分る現実です。

 最初は、私自身の問題とお詫びから始まりましたが、説教準備に終
始した今日一日の中で、一番心配し、祈った事柄が思いがけず解決の
方向へハッキリ進み出したことを、ここに、喜びをもって報告させて
頂きます。今日は、また新しい歩みが始まります。

 聖霊の御導きによって更に歩みましょう。

 祈祷     讃美歌505「歩ませてください」