永眠者記念礼拝「神の庭」2016.11.6

2016116日(日)豊橋東田教会永眠者記念日礼拝                  
 説教「主の庭
         武井惠一牧師

聖書 ルカによる福音書17110(142
讃美歌(21)394「信仰受継ぎ」,385「花彩る春を」、
461「み恵みゆたけき」,728828「み栄あれや」。

 今日は、すでに天に召された方々を覚える永眠者記念日礼拝です。
豊橋東田教会に関係された思い深い方々や皆さまの御親族などの写
真を飾りました。

 主イエスは、十字架で死なれたあと、使徒信条で告白しているよ
うに、死者が赴く陰府の世界に降り、三日間死人の間におられ、陰
府の世界でも、神の国の福音、永遠の命による救いを宣べ伝えられ
ました。

 このことは、初めて聞く方がおられるかもしれません。キリスト
教の聖書には、死んでからでもイエス・キリストを主と信じること
によって天の国・やがて完成する「神の御国」に入ることが出来る
と記されていますので、既にご存知の方が多いと思いますが、ご紹
介します。

 ペトロによる第一の手紙318節後半、新約聖書432頁下の段5行目、
下の三文字からです。「キリストは、肉では、死に渡されましたが、
霊では生きる者とされたのです。19そして霊においてキリストは、
捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」と書い
てあります。

 「宣教されました」というのは、イエス・キリストがこの世界に
もたらされた「神の国」を伝え、イエス・キリストを主である救い
主と信じる者が、その告白と洗礼によって神の国に招かれ、永遠の
命に復活される福音を陰府の世界に留められていた死者に告げる宣
教です。

 十字架にかけられたイエス・キリストは、既に死んだ方々にさえ
復活の希望を与えられました。

 今日、この礼拝でそれぞれの方々が記念し、お祈りいたします。
既に亡くなられた方々は、教会で「永眠者」と言われています。こ
れは、生きていて毎朝目を覚ます皆様に対して、この世を去り、永
い眠りについた方々を言っています、けれども、その方々がいつま
でも永遠に眠るのではありません。

 神の御国が完成し、主イエス・キリストが再臨された時、眠りか
ら覚め、神様によって復活します。

 私たち、キリスト教を信じている者は「神の国」が現実にあるこ
とを信じています。前にもお話ししましたが「神の国」は「神さま
が共にいてくださる『場所』」です。

 それは、人間のいる場所ではありません。生きている人間で、行
ったことのある人は一世紀に生きていたパウロさんなど、使徒=神
様のお使い、と呼ばれる人ですが、ほんの僅かしかいません。

 私も、もちろん、行ったことも見たこともありません。
 それで、今日は永眠者記念日なので、神の国、天国のことを記し
ている「詩編」から先ほど朗読した
84編を選び、どんなことが書か
れているか「ちょっとだけ」ですが少し丁寧に見てみましょう。

 もっとも、今日採り上げている詩編84編は、「賛歌」と分類されて
いる歌で、特に「神の国」の詩ではありません。今日にふさわしい
と司式者が選んだ詩です。

 詩編84編 1節は「まえがき」です。お読みの通り。
 2万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されている
ことでしょう。

 だれが愛しているのか、もちろん神自身ですが、それ以上に、
すべての人々が憧れ、愛している「これ以上ない場所」と言えると
ころ。私たちも、そこを知れば愛さなくてはいられない場所、讃え、
歌いたくなる。どこかの風景になぞらえることさえ出来ないところ。

3主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かっ
て、わたしの身も心も叫びます。

 そこを知れば、私たちの誰もがそこに入ることを希みます。これ
は、そこを示された者の率直な言葉がほとばしり出る。

4あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り/つばめは巣をかけて、雛を
置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。

 神様の、これ以上はない場所、本来ならそこに鳥やつばめなど
が巣を掛けるなどとんでもないところ、近寄るのさえ遠慮すると
ころに、鳥が巣を作り、雛を育てている。全世界を支配される王、
そして、このちいさな私。私のの主である神様。

5いかに幸いなことでしょう/あなたの家に住むことができるなら
/まして、あなたを賛美することができるなら。

 神の国に招かれ、神の国に入ることの望みと、あこがれが口を
ついてあふれ出ます。「神様を讃美することが出来れば」もし、
その場に招かれて、直接、讃美することが出来れば……

6いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/
心に広い道を見ている人は。

 「心に広い道を見ている人」とは、イザヤ書403節からの荒野
の洗礼者ヨハネに与えられた言葉です。週報の
4頁「坂の途中から」
にも引用しましたが、朗読いたします。 

 「呼びかける声がある。主の道に、荒れ野に道を備え/わたした
ちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、
山と丘はみを低くせよ。/険しい道は平らに、狭い道は広い谷とな
れ、主の栄光が、こうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の
口がこう宣言される。](イザヤ書
40章3-5節旧約聖書1123-1124頁)。
 これは、21世紀の現在、イエス・キリストの「神の国」がこの世
で進みつつある現実の状況を指しています。正に、荒れ野の現実が
ここにある。そして、預言者イザヤは更に神からの言葉をこう告げ
る。

 「わたしはすべての山に道を開き/広い道を高く通す。/見よ、
遠くから来る/見よ人々が北から、西から/また、シニムの地から
来る。/天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。主はご自分の民を慰め
/その貧しい人々を憐れんでくださった。」
(イザヤ書
49章11-13節)
 表現は象徴です。現実が「神の国の完成に向かって」このように
進められている。

 詩編の言葉に戻って続けます。 
7嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福
で覆ってくれるでしょう。

 嘆くべき困難もある。嘆きの谷を幾つも幾つも通らなければなら
ない。「神の国」は、決して簡単には進まない、けれど、「神の国
の働き」は決して嘆きでは終わらない。嘆き・試練・ストレスがあ
れば、それをバネにし、力にしてなお進んで行く。

 雨が必要な時は雨が降り、働く者を祝福し、覆い、支えてくれる
でしょう。

 8彼らはいよいよ力を増して進み/ついに、シオンで神にまみえる
でしょう。

 私は、詩編の詩人が「彼ら」と言っていることをここで知り。
これも、父なる神の御心によるのかと驚きます。私は「神の国」に
ついてずっと学ぶ道を与えられ、東京神学大学に入ってから芳賀 
力教授に示唆されカール・バルトの神学によって、はじめて現実と
しての「神の国」に直面しているからです。

 カール・バルトは「神の国」は三位一体の神が進められている大計
画であり、人間が「神の国を築く」などはあり得ない。人間は「神の
国の進行に協力する」その働きに限定される存在だ、と書き記してい
るからです。

 もちろん、紀元前740年頃のイザヤの言葉、更に数百年遡る詩編の
言葉を「実際の預言」として盲信することはできません。けれども、
牧師になってからの私は「信じられないことを信じる」大切さを知ら
されています。

 この「詩編84編」で謳われていることも、「大昔の詩だから」と、
軽視できません。キリストを信じる者が「牧師として生かされたい」
と求める根本は「自分がなりたいから」ではなく、「神さまからの召
命――呼び出し・召喚」によることは実際にあることです。これは、
考えや自覚の問題ではありません。

 もちろん「召命」よりも、「自分がなりたい思い」が先行すること
もあるでしょうが、「召命」がどこで与えられるかは一人一人全部違
います。神様から召され、神様に仕える者とされます。

9万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳
を傾けてください。

 9節のこの言葉を頭において、召命について話したのではありません。
けれど、この祈りは神様の召命に
おいてとても大切な祈りです。召命に
おいてよりも、むしろ「キリスト者として生きる」中で、とても重要で
す。この祈りは、この祈りから様々な事柄や出来事につながっていく上
で、どんな事態においても極めて大切だと、言葉を添えます。

10神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり/あなたが油注がれた人
を顧みてください。

 私たちはそれぞれに盾とする人がいるかもしれません。この詩人が
生きた時代のユダ王国の王かも知れません。様々な人生です、恩師も
おられるでしょう

 この詩文から、「特定するのは無茶だ」とはばかりますが。私が新
共同訳と並行して参照している関根正雄氏の旧約聖書(教文館刊『(新)
訳旧約聖書』)では「あなたが油注がれた人」を「メシア」としていま
す。

 10節を引用、朗読します。「10節 神よ、我らの盾をかえりみ、/
あなたのメシアの顔を見給え。」が、関根正雄氏の訳です。

 こだわるつもりはありません。けれど、「油注がれた人」を丁寧に考
えると、父なる神に向かって詩人がこう祈っても――詩人自身はイエス
・キリストを全然知らなくても――この理解が正しいと思われます。

 現代、現実に進められている「我らの盾」、この「盾は、神の国の
主イエス・キリスト以外にありません。

11あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の
天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選び
ます。

 詩人の言葉が「神の国」に向かっての思いに戻りました。
3節の「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。」からす
ると、すこし現実的な思いになられたかと思います。

 「神の国」は現代歴史を完成に向かって進んでいる歴史の現実です。
神を信じ、イエス・キリストに従いつつこの世を去った方々にとって
も、「神の国は現実」です。もちろん、その方々の方がいっそう現実
を実感されているでしょう。

 12主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え/
良いものを拒もうとはなさいません。

 この言葉も現実です。むしろ「現実を超えた、超現実です」と言いた
いところですが、言いません。

 ここで謳われている言葉が、超現実などと言うよりも具体的な課題
を示しているからです。

 主について、彼は、はっきり認識し、はっきり言っています。
 「完全な道を歩く人に主は与え」これが紀元前1000年くらい前の人
が言う言葉であることは驚きです。

この人について、詩人は国籍も、その人にとって重要な何かの存在を
も、言っていません。どの国の、どの様な存在を神としているかも、
何も問わず、「完全な道を歩く人に主は与え」と彼は断定しています。
彼の神に対する信仰がここにある。又、この詩が神の民に受け入れら
れていることは重大です。

 彼にとって「完全な道を歩く人」は、どこの国籍でも同じ――名前
は違っていても、同じ唯一の神を信じ、歩く人。

 私はここでガーンと一発ドヤされた思いです。今日採り上げお話し
している詩編84編は、すでに「神の国」がそのようなすべての人々に
開かれていることを明らかにしていた!

 神様は、どのような宗教を信じる人でも、「このような人を認め、
与えられる。

 詩人は更に「完全な道を歩く人に主は与え/良いものを拒もうとは
なさいません。」と神ご自身の途方もないスケールをしっかり受け止
め、私たちに伝えています。


 ここに、私たちを越えた「神による神の国」の現実が明かにされて
いる。

 13万軍の主よ、あなたに依り頼む人は/いかに幸いなことでしょう。
 最後の13節は、私たち自身を約3000年を越えて遥かに見ながら、神
に感謝し、神を讃えています。

 私たちはこの言葉をわたしたち自身の言葉として受け、「私たちの周りにいる多くの人々」にこの言葉を「もっとわかりやすい言葉で、言葉だけでなく私たちのすべてで」伝えましょう。
 主なる神は、必ず私たちを支え、導いてくださいます。
 祈祷     讃美歌461「み恵みゆたけき」