説教「赦し、信仰、奉仕」2016.10.30

20161030日(日)東田礼拝「神の国連続講解説教34」                  
説教「赦し、信仰、奉仕
              武井惠一牧師

聖書 ルカによる福音書17110(142
讃美歌(21)23「イエスよ我を」,401「しもべらよ」、
565「働く人々」,8827「父子聖霊の」。

 今日の聖書箇所は17章の1節からです。私たちの聖書では、この
記事はここから始まっているように読めますけれど、ギリシャ語
写本では前の「金持ちとラザロ」の話に続いています。

 以前お話ししたかも知れませんが、ルカによる福音書は一つの話
が終り、次の章に移るときそこで一旦途切れるのではなく、「ギリ
シャ語で、dとeの『で』という言葉な
主題として続ける」聖書箇所
が沢山あります。

 日本語で「で」という接続の言葉と似ていて、意味も「ところが
」「しかし」「一方」「さて」「それで」「次に」「そして」「ま
た」「さらに」と、そして、こうした「反意語」としてだけでなく、
「継続語」としても使われる。日本語の「で」とほとんど同じです。

 他にローマ字のkai「カイ」日本語では「そして」で、英語で
「アンド」と同じ接続の言葉もあるので、単語を追ってみると17章
は8章から続いているとも言えます。

 でも、流れのように続いている場合と、前の聖書箇所の内容につ
いてつながっている場合があり、17章は、前の16章19節「金持ちと
ラザロ」で主イエスが語られたことに直接つながっています。

 長くなるのでここでは読みませんが、贅沢に暮らしていた金持ち
と、その門前でギリギリの貧しさで生きていたラザロ、その死後の
出来事です。

 今日の17章1節は、「で」――「そして」で16章からつながってい
ます。主イエスはこの「金持ちとラザロ」の出来事から「つまずき
は避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」と言われ
ている。

 後で、前の箇所をお読みください。
 金持ちが自分勝手なありかたを罪と思わず、ラザロを対等の人間
と思わずにつまずいた出来事に、主は「これらの小さい者の一人を
つまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれて
しまう方がましである」と、極端とさえ思われる注意をされた。

 続いて、「兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改め
れば赦してやりなさい」と言われ、「一日に七回でも赦してやりな
さい」と命じられています。

 「あなたが、もし赦さないなら」と言外に示されている言葉は
「小さい者一人をつまずかせるか、それとも悔い改めさせるか――
これによって、あなたは臼を懸けられ海に…」と重なります。私た
ち自身が、きわどいところに置かれている現実を主イエスは示され
た。

 5節「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言
ったとき、」

 この言葉は、わたしたちが「自分のこと」として、主に願い、主
に祈っている言葉です。

 主イエスは、この願いを受けて「使徒たちに」答えられました。
「もし、あなたがたに辛子だね一粒の信仰があれば、この桑の木に
『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろ
う」。

 主イエスは、使徒たちの願いに直接答えられなかった。イエス・
キリストが言われた言葉は、結果として「辛子だね一粒の信仰があ
れば」と、信仰によって大きな働きが出来ることを示されました。

 ここで、前にも引用した『新共同訳 新約聖書注解』での一つの
指摘をあげておきます。

 聖書注解では「悔い改めれば一日に七回でも赦してやりなさい」
の言葉、「一日に七回」ということは「一日に何度でもというヘブ
ライ表現」と指摘しで「赦しに制限をつけるな」、を意味する。

 「簡単なことではないが、神が人への赦しに制限をつけないとい
う前提がある。」として、「5-6節 信仰―共同体内相互の『罪を犯
し――悔い改め――赦す』関係は、人と神との関係を前提にした。
」と解説しています。

 続けて「この前提を認めるためには信仰が必要であろう。しかも、
『他人の自分への罪を無制限に許す』
ということは、
『神が自分をも無制限に赦してくださっているのだ』という深い信
仰がなければ、不可能
なことである。従ってここで深い信仰が要請
される」という。

 だから、ここでは深い信仰が要請される。「使徒たちの信仰が増
すようにという願いも、辛子だね一粒ほどの信仰のたとえも、この
ような文脈で読むべきであろう。」と、注解書はいう。

 辛子だね一粒の信仰――桑の木に《抜け出して、海に根を下ろせ》
という譬えの異伝承として、マルコ福音書11章22-23節にもあり、
そこでも、深い信仰は、他人に対しての赦し、及び、神の赦しと関
連付けられている(マルコ福音書11章25節) 。

 自分に罪を犯した他人を赦すことは、自分に対しての神の赦しを
もたらすが、これを信じるには深い信仰が必要だからである、そし
て、「このような《辛子だね一粒ほどの信仰》それはイエスによる
神の支配への信仰であり、(ルカ福音書13章18節)、それは人目に
は小さくても、辛子だねの譬えの神の国のように偉大なことを成し
遂げるものである。」と、この注解者は言う。

 イエスによる神の支配の「信仰の力」は、桑の木に抜け出て海
に根を下ろせ、と言っても聞き従うくらいに力がある。すなわち、
悪の根を張ってなかなか抜け出せない兄弟、他の兄弟をつまづか
せて海に投げ込まれる方がましな兄弟(2節)すらも、聞き従う、
と言われる。

 この聖書注解は私たちに一つの大切な視点を示しています。
たしかに、私たちの信仰は乏しく「辛子だね一粒とは比べ物にな
らない小さな、乏しいもの」で、私たち同士の中での「赦し」でさ
え、とても「何度でも赦す」には遠いところにあります。

 けれど、一方では、この視点とは違う理解も覚えます。
 私たちが求める信仰は「赦すことが出来る」信仰なのか。それとも、
他人に対する信じる者としての信仰よりもむしろ「神の国に向かう信
仰」「主イエスに従い、僅かな力でも用いられる信仰」なのかです。

 それは、この弟子たちの願いが私たち、わたし自身にとって切実な
現実の願いだからです。

 私がこの箇所を読んで最初にハッとしたのは、「この弟子たちの求
めが、私の求めである」実感でした。

 「弟子たちが、よくもこの願いを主イエスに求めて下さった」と、
喜びました。

 そして今、この注解書から与えられた理解を紹介しながら、なお、
主イエス・キリストがこの求めに応えてくださるよう願い、心から
求めます。


 今日の聖書箇所は、まだ7節から10節まであります。ここで主が言
われたことを丁寧に解き明かしましょう。7節の最初に翻訳される言
葉はギリシャ語直訳では説教の初めに言った「で」です。けれど翻
訳者はこの「で」を、「しかし」と訳していますので、こちらの訳
を採り上げます。

 17章7節「しかし、あなたがたのうちだれかが、耕やし、あるいは
牧畜をする奴隷を持っていて、彼が畑から入って来たとき、『すぐ
来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。」

 主イエスは、使徒=弟子たちを奴隷を用いる「主人」にしていま
す。「主人」の立場から受けとめて、どのように思うかと問います。

 更に考えると、弟子たちの求めは「わたしどもの信仰を増してくだ
さい」でした。これに対して主は、「しかし、あなたがたのうち…」
と言われる。

 ここで「de」が「ところが」「しかし」「一方」「さて」「それ
で」「次に」「そして」「また」「さらに」」のどれかで訳された
としても、主イエスはこだわらなかったと考えられます。

 この問いは「奴隷として働いている者」と主が限定していますか
ら、奴隷に対して日常的になされている一般的な在り方が当然、返
答される。

 「『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。」
 もちろん、弟子たちの中には「奴隷」を一般人と区別せず、「同じ
人間」として対等に扱っている者がいても不思議はありません。

 前のところで「一日七回『悔い改めます』と言ってあなたのところ
に来たら」と主は例をあげ「赦してやりなさい」と指示された。改め
て読み返すと、「罪を犯した者が悔い改めるならば、何度でも赦しな
い」と、既に主イエスは言われている。
 いつも主イエスと行動を共にしている弟子たちが、一日七回にわた
って「悔い改めます」と赦しを求めてきた者を「赦せる者になる」た
め、弟子が「わたしどもの信仰を増してください」と願うのは、むし
ろ、主が言われた言葉を「このままでは、赦せません」と拒否し、
「赦せるように信仰を増してください」と、逆に主イエスにぶっつける
ことにさえなる。

 このように理解すると、先の聖書註解での指摘はそのまま受け止め
られるとしても、更に弟子たちの願いと、主イエスが言われたことの
より深い内容を求めなければなりません。

 17・8「 むしろ、彼にいわないか、『わたしが夕食をするものを準
備せよ、そして、帯をして。わたしが食べる、また飲む間私に仕えよ。
そしてそれらの後で、あなたは食べ、そして飲めと。』と言うのでは
なかろうか。」

 主イエスは更に一般的な「主人と奴隷の関係で、当然な在り方」を
指摘される。そこでは、奴隷から主人に対するどのような求めもあり
得ない。当然のことを当然と言われる。

 17・9 指図されたこと(複)を(奴隷が)したゆえにその奴隷に感謝を
彼はするだろうか。

 一般的な主人と奴隷の関係において、既に決められた役割、なすべ
き働きについての常識をイエス・キリストが改めて指摘されている。
弟子たちを主人の立場において、奴隷が主人に対してどのような在り
方を
するのが当然なのかを質問された。
17・10 「このように、あなた方も指図されたこと(複)すべてをした
時、言え、『無益な奴隷である、なすべきことを私たちはした(だけ
です)』。」

 これは、通り一遍の言葉ではありません。また、今、言われた、
「主人と奴隷との関係」について、指摘された言葉でもなく、奴隷
として当然なことを言われた。

 「このように、あなた方も」という発言は、たとえで話された奴
隷についての「あなた方も」ではあり得ません。この、一連の問答
の中で「わたしどもの信仰を増してください」と求めた弟子、その
弟子たちに「このように、あなた方も」と言われた。

 これはどう見ても質問した弟子たちへの直接回答と思われません。
 むしろ、信仰を願い求めた弟子に対して主イエスは「それがわたし
に求める姿勢なのか」、「あなた方はその求めを願える立場にいるの
か」と、問い直す言葉として受けめる必要があります。主イエスの言
葉には、それがハッキリ感じられます。

 もし、この理解について「そのようなことを問い直されているとは
思わない」と、思われた方がいれば、
ここで、私たちが何度も何度も
聞き、自分自身への言葉として伝えられた多くの中から二つだけ言わ
なければなりません。

 ルカによる福音書では「22章38節 あなたがたは、わたしが種々の
試練に遇ったとき、絶えずわたしと共に踏みとどまってくれた。」

 マタイによる福音書では5章11節「わたしのためにののしられ、迫
害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あな
たがたは幸いである。」

 私たちと主イエス・キリストとの関係はここで明確に告げられてい
ます。

 私たちが主イエスに従い、試練に遇い、ののしられ、迫害され、身
に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、「私たちは、
主イエス・キリストと共にある」。

 このような試練、迫害に逢う時は主イエスを信じ、主イエスに従っ
て歩む時、避けられないと主は言われる。その時こそ「ののしられ、
迫害されても」「命じられた働きを日々行う」働き「主イエスと共に
あり、主に用いられる働き」を行う時。「福音伝道のために働く者の『
信仰がまし加えられる』時」です。

 今日の聖書で弟子たちが主イエスに求めた質問、願いは、既に私たち
主を信じる者に解答されている「働く者」の根本です。ストレスを力に
変える実際があります。


 祈祷     讃美歌565「働く人々」