説教「財布と袋と剣2016.10.16

20161016日(日)豊橋東田教会礼拝
      「神の国連続講解説教
32」                  

説教「財布と袋と剣
            武井惠一牧師

聖書 ルカによる福音書223438(152-153
讃美歌(21)21「主を褒め讃えよ」, 396「喜べ常に」、
530「主よ試み」88,37-1「いと高き神に」。

 既に洗礼を受けられた方は、知っているでしょう。イエス・キリス
トが最後の晩餐の終りにペトロと弟子たちに言われた言葉が、今日与
えられた聖書です。

 今日、洗礼をまだ受けていない方も来られるかと考えながらこの説
教を用意しました。主イエスのこれまでの出来事を全部お話するのは
無理ですが、どうして主イエスがこのような言葉を、この時ペトロと
弟子たちに言われているか、まず、そこを少し話します。

 ルカによる福音書、22章35節。前の文章の最後です。
「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わた
しを知らないと言うだろう。」

 ペトロはイエス・キリストの最初の弟子で、いつも弟子たちのリー
ダーとして主イエスと共に歩き、主の指示に従って来た人です。ペト
ロは本名を「シモン」と言います。主イエスが彼を弟子とされたとき
「岩」を意味する愛称をつけられ、それからずっとペトロと呼ばれて
います。

 イエス・キリストはこの記事の後、ローマ軍の兵士まで同行させた
「エルサレム神殿ユダヤ教」首脳たちによって捕らえられ、弟子たち
が逃げ去る中、ペトロだけは主イエスを捕らえたユダヤ教首脳たちの
後を追い、大祭司の屋敷に入り込みました。

 けれど、彼を見とがめた人たちに次々に問いかけられ、「そんな人
は知らない」と三度否定します。

 主イエスは、これをあらかじめ知っておられた。ここで言われたの
は、その予告の言葉です。

 この箇所はギリシャ語写本直訳の聖書が、この場面の緊迫した空気
を現わしているので、改めて、引用して読みます。新共同訳と少し違
います。


 同じ22章34節。「そこで、彼[主イエス]は言った。『あなたにわ
たしは言う。「ペトロよ、今日、三度、わたしを知っていることを、
あなたが否定するまで」、[朝なのに]鶏が鳴かない。』」

 この場の緊張が少しは伝わったでしょうか。ペトロは、この夜、彼
に起ることは何も知りません。出来事が終り、裁判を受けたイエス・
キリストと外の路上で出会ったとき、彼はこの言葉を愕然として思い
出し、声をあげて激しく泣きます。

 イエス・キリストはペトロのことだけでなく、主イエスの逮捕です
べての弟子が逃げ出してしまうことも知っておられた。

それだけでなく、ご自身が大祭司たちの決定を受けてローマ総督ピラ
トの下に送られ、ピラトが十字架に付ける判決を行うこと。十字架に
架けられて死ぬこと。

 更に、主イエスが十字架に架けられ死んで三日後に復活し、その後、
ペトロや弟子たちが復活された主の宣教命令を受けること。

 主イエス・キリストが復活された50日後、神からの聖霊が一同に降
り、弟子たちによってキリスト教会が誕生し、キリスト教が人間世界
に「神の国の福音」を掲げて全世界に向けて出発することも。

 このように、この時すでに、主イエスは弟子たちが出会う将来の出
来事を知っておられた。知られていたので、次の言葉を弟子たちに語
る。

 続く主イエスの言葉は、その現実をすべて知られた主が、来たるべ
き日々にそなえて弟子たちに告げる言葉です。

 22章35節「22・35それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布
も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したも
のがあったか。』彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と言う
と、36イエスはいわれた。」
途中ですが、一旦ここで切ります。
 後の言葉に注目するためです。

 けれど、それだけでなく、ここで切る前の言葉の意味がわからない
と、全体の意味が解らないからです。

 この言葉がごく普通の、弟子たちの生活に関する注意ではないこと
は、多分、皆様も察せられるでしょう。これは、主イエスが十二弟子
たちだけで「神の国の福音」伝道に出発させた時のことを指していま
す。

 教会員の皆さんは「それから、イエスは使徒に言われた。」と記さ
れている言葉で主イエスが「使徒たち」と言われているのに注目して
下さい。

 キリスト教では主イエスが選ばれた弟子たち12人を「使徒」と呼び
ます。12人以外の弟子と同じ弟子でいつもは「弟子」や「弟子たち」
の中に含まれますが、特別に「使徒」と呼ぶのは、「イエス・キリスト
や、聖霊によって『遣わされる使者』」を意味します。

 この人たちは、ただ、「遣わされる」のではなく「主イエス・キリ
ストの権威をもって」「主イエスの権威の下に遣わされる『イエス・
キリストの使者』」です。

 「私たちキリストを信じる者が『使徒』を緊張をもって理解し、認
識する」ことが、私たち自身の大きな分かれ目になります。

 すぐ理解する必要はありません。また、イエス・キリストをまだ知
らない方々がすぐ理解するのは困難です。ここは主イエスが十二弟子
を弟子たちだけの伝道に派遣する時のことを知ってからの方が良いの
ですが、それは後で聖書を読んで下さい。

 その記事は、ルカによる福音書では9章1節から8節、新約聖書121頁
にあります。

 「1イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒
す力と権能をお授けになった。そして、
2神の国を宣べ伝え、病人を癒
すために遣わすにあたり、
3次のように言われた。『旅には何も持って
行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。下
着も二枚はもってはならない。』」

 とても厳しい命令でした。
 でも、弟子たちは従った。そして、この時の弟子たちの伝道は成功
しました。

 その経験のことが、今日の主イエスと使徒たちとの会話です。さっ
き中断した続きになります。

 22章35節「それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も
履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあ
ったか。』」

 主イエスは、ここで段階的に話しています。最初の、弟子たちだけ
の伝道旅行は、同行していなくてもイエス・キリストが何もかも見て
おられた。しかし、イエス・キリストはこの後十字架の苦難を受け、
この世の命を失って死ぬ。そればかりでなく、父なる神に、人間全体
の身代わりとして捨てられる。

 当然、今までのように彼らと共に居られることはない。
 彼ら、弟子たちそれをハッキリ分らせる必要がある。彼ら自らが
自らの信仰によって神の国の福音を全世界に伝えなければならない。

 言葉で言うのは簡単です。けれどそこに、現実の感覚がなければ
ならない。信仰の実際をそこで表わさなければならない。主イエス
はここで、最初の、実際の体験を問います。

 弟子たちは、答えて「いいえ、何もありませんでした。」と答え
ます。使徒として遣わされた弟子たちは、自らの体験によって「自
分たちも、神の国の福音を人々に伝えることが出来た。」と自信を
持ち、主イエスに応答することが出来ました。

 ひと言もここには記されていませんが、イエス・キリストはこれ
を聞いて喜ばれた。

 喜ばれたけれど、更に、言葉を続けて弟子たちに言われる。先ほ
ど中断したところ、36節からです。


 「イエスは言われた。『しかし、今は、財布のある者はそれを持
って行きなさい。』

 これは、弟子たちにとって思いがけない言葉です。彼らは、主イ
エスから受難予告を受けていたけれど、
それが現実に迫り、自分た
ちは主イエスを離れなけければならない、主イエスが予告通り、十
字架で殺されるときが迫っていることを実際にひしひしと感じる。

 ここで、財布と言われたのは、単なる金銭のことだけではありま
せん。弟子集団が生きていく上で必要なことは、主イエスを中心と
してまかわれてきました。

 その「財布」を預かっていたユダは、過越しの晩餐の後姿を消し
ています。

 「財布は――主イエスと弟子たちが『神の国を伝え続ける使徒と
して活動を続けるための財布』。これからは使徒たちが、自分の信
仰によって、父なる神から『与えられる』」。これが「財布」の意
味です。 主イエスは言葉を続けられます。

 「袋も、同じようになさい。」これは、財布だけでなく活動に伴
う様々な必要や、雑事も一緒だと指摘された。注意をうながされた。

 「剣の無い者は、服を売ってそれを買いなさい。」驚くべき言葉。
こう言われるとは予想できない主イエスの注意で、弟子たちの中に
はタマゲただけでなく、中には、本当にゲッセマネで待つ間も剣を
持参し、主イエスを逮捕しようとした大祭司の部下に切りつけ、耳
を切り落とした弟子もいました。

 この後、「裏切られる」と小見出しがある22章49節に「イエスの
周りにいた人々は事の成り行きを見てとり、『主よ、剣[ツルギ]で
切りつけましょうか』と言った。
50その内のある者が大祭司の手下
に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
 「
51そこでイエスは『やめなさい。もうそれでよい』と言い、そ
の耳に触れて癒された。」と記されています。

 マタイ福音書26章52節には、この情景を「そこで、イエスは言わ
れた。『剣をさやに納めなさい。剣をとる者は皆、剣で滅びる。わ
たしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十
二軍団以上の天使を今すぐ送って下さるであろう。
 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどう
して実現されよう。』」

 主イエスは剣の争いや戦争はまったく望まれない。主が意志され
れば何でも可能です。剣や戦争は必要ありません。

 ではどうして「剣のないものは、服を売ってそれを買いなさい。』
と言われたのか。
 むしろ「剣を持っていたら捨てなさい」と言われるなら、分りま
す。でも、主は「買いなさい」と言われた。

 これは、次の言葉が鍵です。「22・37 言っておくが、『その人は
犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に
必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」

 イザヤ書53章12節37節のイザヤ預言です。旧約聖書1150頁を開い
てください。イザヤの預言です。

 「53・12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は
利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで
/罪人のひとりに
えられたからだ。多くの人の過ちをい/背い
た者のために執り成しをしたのは/この人であった
」。
 預言者イザヤは、主イエスが誕生する800年に前の預言者です。
主イエスの名前を知らないままに、52章12節からここまで、イエス
・キリストが来たり給う、と預言しました。
 まだ読んでない方はぜひ、どんな事情がある方でもぜひ、お読み
ください。

 イエス・キリストご自身、イザヤのこの預言はご自分を指してい
ると言われています。

 ここに、イエス・キリストがどれほどのことを成されたのか、実
にハッキリ記されています。
自らをなげうち、死んで 罪人の一人に数えられる。
 これは、全ての人の救いのために、現実になされたことです。だ
から、弟子であり、使徒としてキリストの「
神の国の福音」を人々
に伝え、苦しみを共にする者は、剣を抱いて、苦難に立ち向かいな
さい」と言われています。

 「剣を求めて――自らも罪人とされ、苦しみを受けつつ、『人々
を神の国に招く』ために
」、「剣を用いる」のではなく「剣を求め、
抱いて
」――主と同じ立場を自らの立場として、使徒として生かさ
れる。

 その信仰を持って生きれば「わたしにかかわることは実現する
からである。」と断言される。人間の、日本人の救いが、ここに
実現すると主は言われています。

 38節「そこで、彼らが『主よ、剣なら、このとおりここに二振り
あります』
と言うと、イエスは、それでよいと言われた。
 このことは、週報「坂の途中から」で少し補足いたしました。読
んで説教に合わせてください。

 [これで主日説教は合わりましたが、上の言葉のように、
10月16日週報の4頁「坂の途中から」に、続く補足を記しまし
た。この補足は説教の最後のポイントなので続いて、以下に
転載します。週報4頁「坂の途中から016.10.16 16行目から
です」。


✤ここでもう少し「剣を抱いて」を補足します。説教の言葉で分っ
て頂くのは困難なので、ここに記すことから、一人一人理解を深め、
分っていただきたいからです。もう一つ同じ聖書箇所にある鍵です。
イザヤ書53章8節。「彼が神の手にかかり」です。

✤「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。/彼の時代の
だれが思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼は
神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」主イエスが
「神に見捨てられ断たれた」とイザヤは預言しています。彼とは、
わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で
叫ばれたイエス・キリストです。[マルコ福音書15章34節 新約聖
書96頁]「神に見捨てられ断たれた」とイザヤは預言しています。

✤イエス・キリストは正に、人間すべての背きを負い、「断たれた」。
しかし、絶滅ではありません。「絶たれた」ではなく「断たれた」。
主イエスが「剣を抱いておられた=絶ち切られない芯――神様への
信仰」を持たれていた」から。「断たれても――絶ち切られなかっ
た」。「剣」をそう理解します。言い換えれば、
神が振り下ろされ
た剣を、内なる信仰の剣で受けとめられた。

 主イエスは使徒たちに「服を売って買いなさい」と言われ
たのは、「福音に敵対する悪魔にを剣で切られても、受けとめられ
る剣」を抱くように指示された、と理解されます。[更に加筆して
います]。


 祈祷     讃美歌530「主よ試み」