説教「地上に火を」2016.9.4 東田

201694日(日)東田「神の国連続講解説教25」                  
 説教「地上に火を
           牧師 武井恵一 


聖書 ルカによる福音書124953(133頁)
讃美歌(21)16「われらの主」、392「主の強い」、
402「いとも尊き」728827「父子聖霊の」。

 今日の説教はキリスト教を信じる者に多くの衝撃を与え、衝撃とまで
ゆかなくても、この箇所が意味することをそれぞれが「
自分と、自分の
身内――家族・親族のこと
」と理解して、「どうしよう?」「どうした
らよいのか?
」と悩む箇所です。
 「12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめ
は嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。

 イエス・キリストはここで、疑問の余地がないほどはっきりと断言さ
れています。それは、「
キリスト教信仰の福音に関わること」を指し、
場合によっては「
キリスト教に遠ざかる」あるいは、思い余って「キリ
スト教から離れる
」しかないとさえ思われる言葉です。
 しかも、多くのキリスト者が、53節のこの言葉について、牧師とか、
神学者に質問しにくい。もし、自分自身で理解した「
家族と争わなけれ
ばならない
」と、重なるならば、質問した教師(牧師、伝道師、教務教
師・神学者は『
教師』とされます)から、逆に「あなたは、どうします
」と質問を返されたら、立ち往生するかもしれないと考えると、と
ても質問できない箇所です。

 重ねて、問題が深刻になるのは、この聖書箇所の注解書で、主イエ
スの言葉がそのまま伝えられ、そのまま理解される場合が少なくない
ことを指摘しておきます。これは、キリスト教を信じる上で重大なの
で敢えてここに引用します。

 「ウイリアム・バークレー著/聖書注解シリーズ4『ルカ福音書』
ヨルダン社刊
」(赤いカバーの注解書)187―188頁「剣の到来」
(12・49―53)188頁下の段4行目から。

 「(三)彼の到来は、必然的に分離を意味するであろう。現にそれ
は事実となった。ローマ人がキリスト教を憎んだ理由はそこに有った。
キリスト教は家庭を二つに引き裂いたからである。

 親戚知己とキリストとどちらを多く愛するか、人は繰り返しこの難
問に決着をつけねばならなかった。キリスト教への忠誠が、地上の愛
する者への忠誠に先行しなければならない。これがキリスト教の鉄則
である。人はキリストの卓越さのため、すべてのものを損と思うよう
にならなければならない。

 この注解は文字通り、福音が多くの親戚・家族を引き裂いて当然と
しています。しかし、疑問は残る。

 もう一つ、日本基督教団出版局『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ――
マタイによる福音書―使徒言行録』
から、三好 (みち)教授の注解を引
用します。
12
・49―53。引用333頁下段(項目は14行―334頁上段まで)。

 引用は333頁下段20行からです。
49節《わたしか来たのは》の直訳「わたしは……するために来た」
は終末に来るメシアのセム表現。

[セム表現とは、ユダヤのヘブライ語が「セム語族」で、その表現形
式をとっている、意味]
《地上に火を》ここでの《火》は文脈から当
然「裁きの火」である。イエスの到来によって終末の出来事は現在か
する。イエスの火によって人々はえり分けられる。この火は洗礼と関
連するので罰の火より清めの火(ルカ3・16-17)である。清めの火は
人を裁きと救いに分ける。…イエスの場合それは彼の受難を暗示する。
(参考、マルコ10・38と45)

 この聖書理解・注解が間違っているというのではありません。
 けれども、主イエスがこのように語られている背景。そして「
が、具体的に何を指しているかはもっと丁寧に主イエスの言葉を理解
し、日本のキリスト者だけでなく、未だイエス・キリストを知らない
人々に伝える必要があります。

 最初に、この時代の状況。イエス・キリストはど現実にどのような
背景のもとに、誰に向かってこの言葉
を告げられたのかを採り上げま
す。

 言うまでもありませんが、語られているのはユダヤ・イスラエル。
アブラハム以来の宗教国家です。

 アブラハムに向かって主なる神ヤㇵウェは「わたしは全能の神であ
る。あなたはわたしに従って歩み、まったき者となりなさい。わたし
は、あなたと契約を立て……もはや、アブラムではなくアブラハムと
名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。
」と言わ
れた(創世記17章1節~7節)。そしてこの旧約聖書の続く出来事で
割礼」を契約の徴とされた。
 ユダヤ・イスラエルは、単に宗教国家ではなく、血族国家とさえ
言える国。

 主イエスはこのイスラエルで「神の子」として産まれ「神からの使
」をもって人間世界に派遣された。私たちがここで注目し、はっき
り意識する大切なことは、これは「
ユダヤイスラエル民族の出来事
ではなく、すべての人間のための、かつてなかった出来事だ
」、と言
うことです。

 今日の説教の聖書箇所はイスラエルの民である弟子たちに向かって
神から、「
頑固で自己中心の神の民に遣わされた主イエス」が言った
言葉。神の民の新しい指導者になろうとしている弟子たちへの宣告で
した。「
頑固で自己中心のユダヤ教の一族」には「分裂を恐れるな
と言う必要があった。

 これは同時に、キリスト教が「神の民イスラエルの国家宗教ユダヤ
」から「人間全体の『神の国の福音』」として宗教を越える現実存
在に向かう宣言でもあります。

 主イエスは「もはや血族中心のユダヤ教ではなく『神の国の福音』
によるキリスト教
」こそ、父なる神の全存在を現わす福音信仰として、
自己中心化したユダヤ教からキリスト教への大転換を求め、「
神殿に
仕え、ユダヤ教に安住する祭司、律法学者達
」から「主イエスの弟子
による教会への移行
」を、ユダヤ教からの分裂を求めました。
これこそ、今日の「
分裂をもたらす」中心です。
 これだけではありません。もうひとつ、先に挙げた聖書注解でハッ
キリさせなかった大切なこと。鍵になる言葉「
」の理解に不完全さ
があります。これは「
分裂をもたらす」この聖書箇所にとって、この
ままにはできない重い事実です。

 キリスト教にとって「」は色々な意味を持っています。もちろん、
三好 迪教授が指摘した「
裁きの火」も誤りではありません。しかし、
ここで主イエスが言われた「
火を地に投ずるため」の「」は、「
の終わりの裁判判決
」を指していません。「文脈から当然……」は、
一つには主イエスの発言を終末論の一端と理解していることからの
文脈」でしょうが、主イエスが意識されているこの文脈は「世の終
わり
」ではなく、「神の国」を意味し、将来の弟子たちの働きを意味
しています。

 具体的な証拠を聖書によって示しましょう。
ルカによる福音書の3章16節に荒野の洗礼者ヨハネの言葉があります。
ヨハネがヨルダン川の荒野で教え、洗礼を授け始めるところ、未だ、イ
エス・キリストは登場する前、直前と言う方が早い頃の、ヨハネの発言
です。又、これは、主イエス登場の予告でもあります。

 「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方
が来られる。わたしは、その方の
履物のひもを解く値打もない。その方
は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

 ここで「火」をヨハネが語ります。この「火」は何を意味しているの
か。

 同じ聖書注解の中で三好 迪教授はこの箇所での「」についてこう
注釈しています。

 「16節《わたしよりも優れた方》のヨハネに対する優位性は双方の洗
礼についてである。それは水の洗礼対火の洗礼と言う形で表わされる。
そして、『聖霊とと火の洗礼』はルカ文脈内ではヨエル3・1の成就とし
ての聖霊降臨を意味する(使2章)聖霊の洗礼は救いをもたらす霊の洗
礼であり、ヨハネの『水による洗礼』は霊によって救いをもたらす洗礼
への準備段階としての罪からの改心の洗礼を指す。だから、水で洗礼を
授けるヨハネよりも《優れた方が来られる》という。しかるに『火によ
る洗礼』とは同じ聖霊降臨の救いを示すのか(使2・3-炎のような舌)、
あるいは火を清めの表象とするか(エレミヤ6・27―30、マラキ3・2)、
世の終わりの決定的刑罰を意味するのか
[引用省略]しかし終末決定的
刑罰としての火の
洗礼は不可能である。救いのない、刑罰のみをもたら
すメシア待望という思想はユダヤ教にもキリスト教
にも決してなかった
からである。」(前出、聖書注解による。280頁上段13行)

 少し引用が長くなりましたが、この聖書箇所の大切さからなのでご容
赦ください。

 わたしは三好 迪教授によるこの注釈は採用いたしません。私たち自
身が授けられた洗礼は水と聖霊による洗礼ですが、その中に「
」によ
る洗礼も含まれていたと理解し、信じているからです。

 それは永遠の新しい命」にあずかる。「永遠の新しい命」を教会
での洗礼によって与えられているからです。

 言い換えれば、「永遠の新しい命」はこの世の命が終わった後「神の
」に迎えられることを意味します。イエス・キリストと主イエスに続
く歴代2000年近く継続された洗礼は、水と聖霊とにより「
罪を許され、
永遠の命――神の国への招きを約束される
」洗礼です。
 この理解をあてはめると、「分裂をもたらす」小見出しがつけられた
今日の聖書箇所が分ってきます。

 この洗礼は「ユダヤ教から分裂する」、ユダヤの人々の日常を否定す
る敵対的なものではありません。

 主イエスは言われました。
「火を地に投ずるためにわたしは来た。そして、すでに (火が)つけら
れていたならと、どんなにわたしは願っていることか。」

 もし、預言者や民の指導者によって「神の国が近づいた」「神の国
が到来する」という福音がすでに宣べ伝えられ、信じられていれば、
主イエスが新たにどのような活動をされたか諮り知れません。けれど、
歴史の現実は神様による現実です。

 主イエスは父なる神が「人間と人間世界をどのようにするか」であら
ゆる救済方法を検討された結果、父なる神が決定されたご計画によって
私たちの世界に「派遣され」、「神の子としてのすべてを捨てて、人間
として生き」、「人間として洗礼を受け」、「人間としての信仰に力を
発揮され」て「神の国を宣べ伝え」、「人々を癒し」、「奇跡を行ない
」、「人々を招かれ」ました。

 そして、「すべての人間の罪を担われ」、「肉体の受難を受け」、
「罪の赦しの贖罪――赦しの生贄」として「十字架に架けられ」ました。

 それだけでなく、「十字架の上で、『神に逆らい背いた人間の反逆を、
罪なきただ一人の人間として自身で引き受け、人間全部の身代わりとし
て見捨てられ』命を落し、陰府に落され」た現実を私たちは知っていま
す。

 この主イエスは、すでに「人間の父と子、母と娘など、すべての血
のつながりの分裂以上の、最大の分裂。」

「神の子が、父なる神と分裂しなければならない」最も悲惨な「死」
をご自分自身で身に受けられた。

 21世紀の今、既にそれは、現実になされた。
 にもかかわらず、既に罪をご自身で贖われたその人間に、家族や親し
い群れに、「分裂――親しい者との分裂」を求められるでしょうか。

 今日の聖書箇所は「既になされた分裂」の鎮魂歌と、現在進みつつあ
る神の国の輝く未来への招待――です。

 「これは、まだ、主イエス・キリストの救いを知らない人々に向けら
れた、また、既に救いの中にありつつ、自分を見失い、恵みと喜びを忘
れている人々、かつて教会に関係した人々。今、教会でどうしたらよい
かを悩んでいる私たちに向けられた、励まし、背中をドヤし、元気づけ
る荒っぽいエールです。」

 私たちは9月に『豊橋東田教会の伝道集会を行う準備修養会』を行お
うとしています。それは、「自分が参加する伝道」をまだ体験されてい
ない方々にとって、大きなストレスかもしれません。

 けれども、わたしは「週報・坂の途中から」に書いたように、「ストレ
スを通して力が与えられ、人生に恵みがあたえられる」と信じます。創
世記で神様が人間を創られた時「ご自身の似姿」とされた、その現実が
ここにあります。既に「患難を希望として喜んだ、パウロ」のように、
伝道のストレスを受け、成し遂げて喜びを得ましょう。

  祈祷     讃美歌402「いとも尊き」