説教「主の過越し」2016.10.2

2016102日(日)東田礼拝 「神の国連続講解説教27」                  
 説教「主の過越し」
         
牧師 武井恵一 
聖書 ルカによる福音書22章14―23節(141頁)
讃美歌(21)18「心を高く」、81「主の食卓を」、
78「我が主よここに集い」、88、23-4「イエスよ…永遠の光」。


 私たちは毎月第一日曜日に聖餐式を行っています。第四金曜日の夜の
夕礼拝でも行ない、また、クリスマス、イースター、ペンテコステの礼
拝でも毎年行っています。聖餐式はイエス・キリストを主と告白するキ
リスト者にとって特別な意味をもっているからです。

 今日、神の国連続説教に選んでいたところは、ルカによる福音書の
主の晩餐」と小見出しが付けられている、「イエス・キリストご自身
の過越し
」の箇所です。
 「過越し」が何を意味するか、今まであまり取り上げなかったので少
し話ます。

 神は、奴隷状態でエジプトで苦しむイスラエルの民を脱出させるために
モーセを指導者として選び、王ファラオにエジプトから去らせるよう交渉
させ、承知しないファラオに「
血の災い」「蛙の災い」「ブヨの災い」、
やがてはイナゴの災い、暗闇の災いをもたらしたが、王は一時は約束する
ものの、守らず、民を奴隷として留め、解放しません。主なる神様は最後
に「
主の過越し」をもたらします。
 ここは、聖書を要約、引用します。「イスラエルの共同体は、傷の無い
一歳の子羊の雄を屠り、その血を取って、家の入口の二本の柱と鴨居に塗
る。その夜、肉を焼いて、酵母を入れないパンを苦菜をそえて食べる。必
ず子羊のすべてを火で焼いて食べ、残った場合は焼却する。食べる時は、
腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越しで
ある。その夜、わたし[主なる神]はエジプトの国の人であれ家畜であれ、
すべての初子[最初に生まれた男子]を撃つ。

 あなたたちの家に塗った血は、しるしとなる。血をみたならば、わたし
はあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つ時、滅ぼす者の災
いはあなたたちに及ばない。この日はあなたたちにとって記念すべき日と
なる。この日を主の日として祝い、世々にわたって守るべきふへんの定め
として祝わなければならない。(出エジプト記12章1-28節。全体は3章―
レビ記、民数記、申命記に至る)。


 説教者が「イエス・キリストの過越し」としたのは、「神に造られた人
間全体が罪に捕らわれ、脱出が不可能な状態にある」と見られた神様が
イエス・キリストを人間世界に遣わし、人間自身では不可能な「罪からの
脱出・贖い」の献げものとされ、人間を根本的な罪から「贖い出し」[解
放させ]、「和解を成し遂げられた」

「主の過越し」は――御子イエスが生贄の子羊とされ、人間の身代わりに
捨てられた――ことです。

 今日の聖書と同じ頁,下の段最初にある7節は「過越しの子羊を屠る
べき除酵祭の日がきた」で始まっています。過越しの日は、主の晩餐の日
と同時にモーセのエジプトでの出来事を記念する記念日です。

 マタイ福音書の連続説教で、主イエスの十字架、クライマックスの日
が過越しの日に重なったことを語りましたが、改めてその重大さを知らさ
れます。

 主イエスは、聖餐式の主であると同時に、過越しで屠られた子羊をも顕
わされていること。私たちが神の民イスラエルを継ぎ、新しい契約によっ
て生かされていることを覚えます。

 それはまた、現代の人間世界が「新しい世界」として歴史を進んでいる
現在を改めて意識するよう、私たちをうながします。

 今日の聖書箇所は「時刻になったので」から始まっていますが、この
「時刻」は、単なる時間を表すことばですが、もっと大きな、とんでもなく
大きな「時」を現わしているとも言われます。イエス・キリストの時で
す。

 「主イエス・キリストの『時』になったので」。彼は席に着かれた。
 続く言葉で「使徒たちも一緒だった」と書かれています。この言葉は
ギリシア語でも「アポストロイ」弟子ではなく十二使徒の「使徒」です。

 ここに、主イエスの「時」が、使徒たちの「時」でもある事。三位一
体のキリスト教全体が迎えた「時」を私たちに示しています。

 出エジプトとイスラエル建国の「時」が、その「過越しの日」に「イ
エス・キリストの日――聖餐でいつまでも覚え・自分のこととして意識
する日」に重なった。ここに、父なる神と聖霊と子なるイエスの新しい
時が現実になりました。

 「新しい時」は「私たちの時」です。永遠に続く「神と共にある時」
の始まりが、ここにある。「神の御国」はここに生まれようとしていま
す。

 注目されるのは、この「使徒の時」、イスカリオテのユダも、「使徒
の中にいた」現実があります。

 主イエスは今日の聖書箇所ルカ22章21節で「わたしを裏切るものが、
わたしと
一緒に手を食卓に…」と言われている。

 ルカは彼を含んで「使徒」と記しました。主イエスもこれを否定されて
いません。このことも、私たちは心に留めておきましょう。


 次の15節は大切な個所なのでギリシア写本直訳聖書を読みます。
 「22・15 そして、彼らに向かって言った。『わたしが苦しみを受ける
前にあなた方と共にこの過越し(の食事)を食べることを望みに、わたし
は望んだ。22・16 なぜなら、あなた方にわたしは言う。『神の国で過越
しが成就されるまで、わたしは決して食べないと』」

 「この過越しを(過越しの食事を)食べることを望みに、わたしは望
んだ」は、新共同訳では「切に願っていた」と訳され、意味は分かりやす
いのですが、こう訳すしかない直訳のほうが主イエスが心から切実に願
い、望んでいた思いが伝わります。

 主イエスは、後に「聖餐」とされるこの食事、使徒たちと共にした最
後の晩餐を、これほどまで望まれていた。もちろん、「聖餐式」は世界
中で行われ、日本
基督教団でも儀式化されていますが、儀式化されたことで主イエスの
「この、晩餐を求め願う思い」が薄れてしまったとしたら、「残念」ど
ころのことではありません。

 私は、主イエス・キリストがこれほどまでに「過越しの晩餐を求め、
願われた」現実を改めて深め、問い直しました。この中にある主イエス
の思いは何が中心だったのか。

 主イエスはマタイによる福音書とルカによる福音書で「主の祈り」を
教えられ、私たちは今も礼拝で、そしてそれぞれの部屋で祈られていま
す。

 主の祈りを、自分自身の祈りよりも先に教えられ、やがて自分自身の
祈りが中心になる中で、「自分自身では祈れないことが、主の祈りによ
って祈られる」と気が付きました。

 主の祈りを祈り続ける中で、一番大切な祈りが主の祈りにあると知ら
されました。
これは、「現実の一つの奇跡」だと知り、感謝しました。

 そこから、だんだんと、更に与えられ「主の晩餐=聖餐式」は、「主
の祈りとは
また別な、主の祈りでは届かないところにある奇跡」と覚えます。

 主なる神への信仰は、「思い込み的な」「習慣的な」ものとなるかも
しれません。けれども、「祈り」はこれを「思い込み」や「習慣ではない
」現実をいつか覚えさせ、信仰を成長させます。

 「主の晩餐=聖餐式」は、その人間自身による祈りよりもっと固定化
し、習慣化する要素を持っています。その要素は「習慣化」を「それで
よい」と自分で認める自己中心の本能的な作用が、黙っているといつの
間にか働き、一層その方向に進ませるとも見えます。

 けれども、今、実際に思い当たるのは「そこにこそ、信仰を成長させ
る大切な分れ道がある」ことです。

 先ほど、「祈り」は、日常的な自分自身の求めからもうながされ、主の
祈りに重なって信仰を支える要素になると気付きました。

 「主の晩餐=聖餐式」は、自分自身の本能的な求めではなく、「教会
に行って福音にあずかりたい。礼拝と聖餐式に加わりたい」と「自分自
身の意志」がなければ、参加しません。

 多分、その中間として、信仰生活によって「『礼拝に参加しよう』と
習慣的に自覚する心」があり、主イエスは「聖餐式」によって更に信仰
を成長させ、ご自分のようなところまで成長させたいと望まれている。
「望んで、望んで、切望されている」と知りました。

 主イエスはご自身が「人間」として生まれ、人間として洗礼を受け、
その時与えられた聖霊によって多くの奇跡を「実現」されました。神の
御子としての権能ではなく、聖霊を受けた「人間」として、です。

 そのためにこそ、主イエスは「この過越し(の食事)を食べることを望
みに、わたしは望んだ。」

 カトリック教会の、化体説――パンとブドウ酒が現実に「イエス・キ
リストの肉」と「イエス・キリストの血」に「なる」「実体化する」理
解は、イエス・キリストご自身がこの「最後の晩餐」に共に加わり、
「十字架の苦しみ」「父なる神に見捨てられた悲哀」を分かち、「共
に飲み、共に食べる望みに、わたしは望んだ」と言われたことに通じ
ます。

 主イエスが「神の国で過越しが成就されるまで」と言われたのは「神
の国が人間世界に到来するまで」です。十字架上で父なる神に見捨てら
れ、「イエス・キリストは神の国の過越しを成就された」。

 父なる神による「復活」はその「公告・宣言です」です。ここで、
「神の国が来た」。

 私たちは、私たちの聖餐式にイエス・キリストご自身が加わってくだ
さる。現実にこの世界にもたらされ、歴史の中を進んでいる神の御国は、
イエス・キリストがその
主体として、その王として進められている「現実存在」です。

 「現実存在」という言葉は、「現実の存在」を意味しますが、ありきたり
に「存在する」ではなく「本来ありえないものが実際に存在する」こと
を表す言葉としてカール・バルトが生みだし、井上良雄教授が熟語とし
て訳しました。

 19節「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを
裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与え
られるわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい。』

 これは新共同訳です。「あなた方のために与えられる」と言われたの
は、十字架において、すべての人間のために与えられるという意味です。

 ここでも「使徒たちに与えられた」と、弟子ではなく「使徒」が用い
られています。

 豊橋東田教会で聖餐に与るキリスト者は全員「使徒」だと自覚して下
さい。これまでの信仰歴とか、教会での働きとか、一切関係なく、イエ
ス・キリストを主と告白したものは、聖餐を受ける時すべて「使徒」です。


 ただし「使徒」は、弟子と内容が違います。「弟子」は、「従い、教
えられる」者。「使徒」は「教えられた事をし、伝える者」――主イエ
スの「福音」を、周りの人々に伝え、「神の国に招く」者です。

 「20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、
あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

 日本基督教団の式文では、この言葉の後に「だから、あなた方はこの
パンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至
るまで、主の死を告げ知らせるのである」と続きます。

 これは、コリントの信徒への手紙一、11章25節から26節の言葉で、
「主の死を告げ知らせるのである」は、「イエス・キリストが十字架に
おいて間違いなく死なれたこと」の証しです。

 けれど、それだけではなく、イエス・キリストを主と信じ洗礼を受け
た者が、洗礼で水を注がれ、あるいは水に浸かる時、「イエス・キリス
トの死に与り、復活を約束された」と実際に水を通して覚えることにも
つながります。

 これは「新しい契約」にもつながっています。いいえ、 これは「新
しい契約」そのものです。

 言うまでもない事ですが、新しい契約は「神の国の福音――神の国に
入る」約束ですが、これは同時に「復活の福音」であり、「永遠の命を
与えられる」すなわち「喜びの訪れを告げる働き」です。一般の方にこ
れを分って頂くのはとても困難ですが。私たち自身が「信じている」と
分れば、必ず、いつかは分かってくださると信じます。

  祈祷     讃美歌78「わが主よここにつどい」