説教「貪欲」について

2016821日(日)東田礼拝「神の国連続講解説教25」                  
 説教「貪欲について
             牧師 武井恵一 

聖書 ルカによる福音書121321(131-132頁)
讃美歌(21)14「たたえよ王なる」、375「賜物と歌を」、
433「あるがまま我を」、8824「讃えよ主の民」。

 今日の聖書箇所は、多くの群衆――足の踏み場もないほど詰めかけ
た多くの群衆の前で、主イエス・キリストがされた話の続き。7月10日
に説教したところの続きです。

 10日に話した場面では、主イエスが食事に招かれたファリサイ派の
家で、彼らの偽善について歯に衣を着せない言葉でファリサイ派を叱
り、律法学者が「
そんなことをおっしゃれば、私たちを侮辱すること
になります
」と言った。
 この厳しいやりとりで、弟子たちが青くなったのを知って、主イエ
スはその家から出た後、待っていた群衆に向かわず、すぐ弟子たちに
向けて「
恐れるな」と励まされ「あなたの髪の毛一本一本まで神様はご
存知だ
」と指摘され、安心させました。その場の続き、主イエスは群
衆に向かっても厳しい姿勢のままです。

 群衆の中には「この方は、神様から私たちに遣わされてきた方だ
と理解し、信じている人々がいます。

一方、「お互いに足を踏み合うほど」ぎっしり押し寄せた群衆の中に
は、何も知らないまま主イエスの高い評判を聞いて駆けつけた野次馬
的な人々も沢山います。

 ユダヤ・イスラエルはヤハウェの神を「自分たちの神」と信じる
神の民の宗教国家」で、「先生」はラビと尊敬され、人々のもめ事
を裁く権威者とされていました。そして、あまり知らない人は単純に
主イエスを「
ラビ」だと思っていた。今日の聖書は、これを前提にして
始められています。

 だから、ここで見当違いな「遺産相続のもめ事を裁き、調停しても
らいたい
」という人が群集の中から願い出ても不思議はありません。
 しかし、イエス・キリストは厳しい態度で「
誰がわたしを、あなた
方の裁判官や調停人に任命したのか。
」と言われた。
 この言葉は、群衆の一人の願いが、主イエスを「権威のある方」と
認めた願いであると知りつつ、主は「
わたしは、そのような裁きをす
るどころの者ではない。更に、高い使命を持つ者だ
」と宣言された、
とも言えます。

 次の言葉はその立場を背景にしています。「どんな貪欲にも注意を
払い、用心しなさい。ありあまるほど物を持っていても、人の命は 
財産によってどうすることも出来ないからである。

 この言葉はギリシア写本直訳では「注意せよそしてすべての貪欲に
対して、用心せよ。その人に有り余っているときに、……彼の生命は 
彼の持ち物(複)によらない。」です。

 この言葉は注意をうながす言葉と言うより、群衆全体に問題を指
摘し、指示を与える言葉、命令に近い発言だった。

 あとに続く金持ちの譬が、それを裏付けている。この群衆は、地元
の貧しい「地の民」だけではなく、ティルスやシドンなど、イスラエ
ルの外から来た人々もいます。

 譬えは「金持ち」の話ですが、社会を知っている人々は、「ある金持
ちの畑が豊作だった
」との前置きから、「金持ち」と言われるこの人物
が自らも働き、努力して豊作の成果を得たと受け取ります。 

 12・19節、この人物が「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これ
から先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べ
たり飲んだりして楽しめ』と
」言っているのは、この豊作が得られる
まで、何年もの間「
努力して、次の年をどうにか向えられる程度の収
獲を得てきた
」と察せられます。
 パレスチナ一帯は決して肥沃な土地ではありません。多くは岩石砂漠
に近い荒れ野で、ちゃんとした畑にすること自体が大変で、毎年石を拾
って捨てるなど、繰返される働きです。

 この現実を思うと、たとえ話が「金持ちの農場主」の命が取上げられ
る不幸を、「
貪欲」による結果だと言えるか。むしろ「生命のはかなさ
という思いが「
貪欲への注意」以上に、聞く人々の心に湧くのではない
か、とさえ感じられます。

 実は、皆さんがそう感じられても無理はないと言える背景が、この箇
所には隠されています。

 先ほど、主イエスの発言をギリシア写本直訳で紹介しましたが、この、
締めくくりの言葉はかなりの違いがあるので、新共同訳と並べて紹介し
ます。


 新共同訳
「12・20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12・21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのと
おりだ。」


 ギリシア語写本直訳
「12・20 しかし神は彼に言った、『愚かな者よ、この夜、あなたの魂を
彼らは(魂を)あなたから盗み去る。それで、あなたが備えた物(複)は、
だれのものになるのか。

12・21 自分のために宝を貯える者、そして、神に対して富まない者は、
このようである。』」


 微妙な違い、言い方の差と言えるかもしてませんが
「神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と

「神に対して富まない者は、このようである。」との違いです。
言葉の違いはちょっとですが、内容は違います。

 更に言えば、主イエス・キリストの譬は「どんな貪欲にも注意を払い、
用心しなさい」が譬えの主題ではなく「神に対して富まない者はこのよ
うである」こそ、主イエスが指摘された中心の主題です。

 改めて、この聖書箇所の全体を私たちの現実、キリスト教を信じてい
る者。ことに、日本という国にあって現在、日本のキリスト教衰退に悩
んでいる現実に当てはめますと、この箇所は「2000年の時代を隔ててい
る現在の日本にあるキリスト教教職・信徒に向けられたメッセージ」と
受止められます。

 この聖書箇所は、日本だけでなく、「ヨーロッパ諸国に現象している
キリスト教徒激減にもはっきりと向けられている」と痛感いたします。

 むしろ、この聖書箇所は第一に「キリスト教を国教として来たプロテ
スタント諸国」に向けられ、日本は違った形でメッセージが与えられて
いるとも受けとめます。

 ドイツやスウェーデン、ノールウェーなどの諸国はキリスト教を国教
としていましたが、20世紀末から「キリスト教を国教とするのをやめる
――信教の自由が強調され、国教を廃止する」キリスト教国が続出しま
した。

 アメリカ合衆国、オーストラリアなど信教の自由を憲法で謳っている
国もあり、また、イスラム教を国教としている中東諸国、仏教を国教と
しているスリランカ、カンボジア、ブータンなどもあります。

 深刻な問題は国教廃止でこれまで「教会税でキリスト教財政をまかな
ってきた国」は、信徒が激減したと同時に、献金が激減し、規模の縮小
が迫られ、教職(牧師・伝道師)が維持できない(活動地域は従来の規模)
等、様々な問題が起っています。

 キリスト教・国教国の場合は「国教だから」とキリスト信者が教会員
登録をし、10%の教会税を献金していましたが、これらの人々に対する
「信仰に基づくつながり・交わりが不十分」だった――「日本において
は、一般の人々に対する伝道の働きかけが不十分だった」と、見られま
す。問題は色々聞こえても具体的な対応が出来ていななかった現実があ
った。

 「神に対して富まない」は、現在の私たちを含めて大きな問題であり、
私たち自身の実行しなければならない課題です。

 聖書では、共観福音書にある主イエスの言葉、ルカ福音書では18章22
節「これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがま
だ一つある。持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてや
りなさい。そうすれば天に富を積むことになる』」があります。

それは、「最重要のいましめは、『心を尽し精神を尽くし、思いを尽く
して主なる神を愛する。第二は自分自身を愛するように隣人を愛する』
ことです。

 ただ、日本の場合は「持っているものすべてを売り払い、貧しい人々
にわけてやりなさい」は、「どんな人々
へも(最高の宝)イエス・キリ
ストの福音を伝え、主イエスを紹介して教会に招く」ことが「神に対し
て富
む」在り方と自覚します。
 ここで、具体的な取り組みについて提案する前に、聖書にある主イエ
スご自身の言葉をもう一度読み、新しい理解に進み、私たちの現実の土
台にしたいと願います。

 主イエスはルカ福音書12章15節で「どんな貪欲にも注意をはらい、
用心しなさい」と言われ、その例として畑が豊作だった金持ちの譬を話
された。それで21節「自分のために富を積んでも、神の前に豊かになら
ない者」と言われる。

 その金持ちの貪欲は「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ちは、
『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思いめぐらしたが、
18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、
そこに穀物や財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。』これ
が、彼の「貪欲」についての言葉。

 この後に「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。
ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」、という言葉があるが、
これは、直接貪欲を現わす言葉ではない。

 この金持ちは「貪欲」といっても悪辣な、人を押しのけて自分のもの
にする類ではなく、「貪欲の例」としては少し弱いと思います。

 そして、今日は、半ばぐらいのところで日本のキリスト教会の問題。
キリスト教を「国教」にしていたが廃止したヨーロッパ諸国で起ってい
る問題とその困難をお話ししました。私たちは、私は、「何としてでも
日本のキリスト教をもっと力強い、豊かな愛を産みだすキリスト教・教
会にしたい」と願い、祈っています。

 そこで、具体的な取り組みを進めようと動いているのですが、ここで、
日本の、「この地の伝道」こそ、言葉は悪い表現ですが「貪欲に」進め
たいと切に願います。

 「貪欲」で、良い意味、プラスの内容を持つ言葉がないか調べました
が「熱心に」とか、「努力して」はこの切実な現状であまりピンときま
せん。思いあまってギリシア語聖書の「貪欲にあたる言葉プレオネクシ
ア」の関係の言葉をあさり「飽くことを知らない=プレネクテース」を
知りました。

 これは「貪欲」につながる、「いわば悪い言葉」ですが、「飽くこ
とを知らない」は日本語でプラス思考、単なる努力を越えて、「一生
懸命、実現に向かう姿勢」です。

 私たちは「飽くことを知らない」者として、豊橋、東三河の伝道に
向かいたいと思います。私たちはお金持ちではありませんが、「畑を
持つお金持ち」が、何年も何年も飽くことを知らず畑仕事に取組んだ
結果、大豊作になった譬えを聞きました。

 この金持ちは「自分のために」このようにし、大きい倉庫を建て、
命が終わりましたが、この金持ちが「神の前で、神のために『飽くこ
となく』働いていたら、きっと神様に祝福され永遠の新しい命に生か
された」と思います。そのように主が導かれたと信じます。

 豊橋東田教会の私たちは様々な可能性をこころみ、僅かな成果を与
えられましたがそれを生かすまでには至っていません。しかし、2000
年前の私たちの先達は実際に伝道活動の中で、神様による、聖霊の秘
義、現実の力を知り、生涯をまっとうしました。

 「2このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3そればかりでなく、
苦難をも誇りとしています。わたしたちは知っているのです。

苦難は忍耐を、4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5
望はわたしたちをあざむくことがありません。わたしたちに与えられ
た聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時
に、不信心な者のために死んでくださった。」これはパウロの言葉で
す。ローマの信徒への手紙5章2節から6節まで読みました。私たちは
これから「飽くことなく・正しい貪欲を発揮して」伝道の働きに進
みます。


 私たちは今までやったことの無い、「教会全員による手作りの伝道」
に向かい、主イエス・キリストのために力を尽くします。主イエスは、
聖霊の力強い支えと導きを必ず与えてくださる。


現在の豊橋市でキリストを知らない方が何人来られるか分かりません。
私たちは「飽くことなく」進みます。


  祈祷     讃美歌433「あるがまま我を」