説教「自分の十字架」2016.8.7

201687日(日)東田礼拝 「神の国連続講解説教21」                  
 説教「自分の十字架
             牧師 武井恵一 

聖書 ルカによる福音書92127(122頁)
讃美歌(21)12「尊き我が神」、.363「御神の力」、
463「わが行く道」、728850-2「示し給え主よ」

 私たちは「神の国連続説教」を2月から与えられています。毎回、
短い聖書の言葉から少しづつ与えられ、主イエス・キリストがもた
らされた神の国、神の御国がどのような内容を持っているのかを知
りはじめています。ことに最近は思いがけない所から与えられて
います。

 けれども、私たちは「何が与えられているのか」、その中心に中
々気が付きません。「与えられている」のは、聖書の言葉とその言
葉についての解釈ではないのか?……と思われることが多いでしょ
う。

 確かに、そう言えます。
 けれども、「与えられている――言葉」は、現実です。
 礼拝で説教壇の上からお話しする者として、重要なことに気づき
ました。気づかされましたと言った方が正確でしょう。

 このことをお話しするのは、少し申し訳ない気持ちもありますが、
それどころではないことなので、率直に話します。「教会で――神
の国の内容を『与えられる』のは、まず、説教する者からだった」
と気づかされたのです。当たり前かもしれません。

 ほとんどの聖書箇所は、以前に何度も読んだところです。きっと、
皆さんも読んでいると思います。けれど、そこに「神の御国の内容
が示されていること」に、中々……今でも?  気が付かない。

 もしかすると、これは放っておけない耳鼻咽喉科か脳神経科に関
係する「耳タコ症候群」かもしれない!

いや、これは「耳にタコ――何度も聞いて、耳にタコができちゃっ
た」って冗談からの言葉ですけど、マジで、本当にそれは「あり得
る!」

 私は蛸、烏賊のたぐいが大好きで、喰えるものなら毎日喰いたい
けれど、この「タコ」は喰えません。

 冗談はさておき。「まず、説教する者が与えられる」ってのは、
本当です。マジ、マジ。

 聖書箇所を選んだのも、説教でこの箇所をどう語るかも、まず
当人からですからイヤでもそうなるってのは理屈で、マタイによ
る福音書の連続講解説教でもそうしてきました。

 マタイでも、意識は「神の国中心の説教を目がけて」いましたか
ら。残念ながらあまり「目がけた効果はありませんでしたけれど…
…」もちろん、「私の不徳の……至り」ですけれど。

 で、どうして「与えられる」ようになったか、考えてみました。
この「アタマ」は薬缶じゃあないので、一応考えることはできます、
で、思い当たりました。

 「神の国連続講解説教」をやっているんだ、今年一月に「どの聖
書箇所を取りあげるか」ほとんど、闇夜の鉄砲的に、「何かに、ド
コカニ当るダンべえ」と一覧表にしましたが、実は「闇夜の鉄砲」。
その通り。

 三週間くらい先までは、神の御国の何を採り上げるか、構想して
いましたが、後は当たって砕けろでした。

 けれど、やってみたら「与えられた」のです。
 本当に、思いもよらない神の国の連続説教が与えられ、まず、
本人が、喜んでいます。

 そこで判ったのは「求めれば、与えられる――求めよさらば、与
えられん」です。これは、私だけではなく、聞かれる皆様にもきっ
と当てはまると確信します。


 で、今日のところに入ります。
 今日与えられた中心は、「自分の十字架」です。けれど、皆さん
それぞれがこの説教題から「わたしの『自分の十字架』は、アレ
か?」と、それぞれで深く考えられた実際の、現実の問題とは少し
違うかと思います。けれど「自分の十字架」です。

 初めは前の箇所のつなぎからです。
 ルカ福音9章21節は「イエスは弟子たちを戒め、このことを誰に
も話さないように命じて
」からです。
 ルカ福音書での「メシア告白」はマタイ福音書のドラマチックな
情況はありません。ペトロが告白した直後、主イエスのこの言葉が
続いて、今日の箇所に入りました。

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者た
ちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 ここには「十字架」という言葉はありません。受難予告で十字架と
語られるのはマタイ福音書での三回目受難予告だけです。けれども、
ローマ支配下のユダヤでは占領後多くの十字架刑が行われていたの
で、弟子も、人々も十字架の残虐刑は知っていた。

 23節「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来た
い者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従
いなさい。

24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために
命を失う者は、それを救うのである。」

 ここで主イエスが言われた言葉は、実にそのものズバリです。
「わたしについてきたい者」への具体的な招きがここにある。

 また、ここに主イエスが言われた「日々、自分の十字架を背負っ
て、わたしに従いなさい。」が示されています。この言葉「日々、
自分の十字架を背負って」をめぐって多くの人々が……というより、
世界中のキリスト者が「自分の十字架」とは一体何かを求め、それ
ぞれに思い当たる働きに全力を尽くしました。

 もう何度か話しましたが、コンスタンティヌス大帝のミラノ寛容
令がローマ帝国での迫害を停止する前、キリスト教は全ローマ帝国
規模の迫害に逢い、多くのキリスト者が殺されました。その時代、
帝国は財政難で人々への福祉がとだえ、病死、餓死した人々がロー
マ市内で死に、行き倒れの人や孤児が放置される事態に至った時、
逮捕されれば殺されるキリスト者、地下墓場カタコンベに隠れてい
たキリスト者がひそかにそれらの人々を救い続けた出来事がありま
す。

 その、イエス・キリストに従った人々、十字架を背負った人々に
よってローマ帝国はキリスト教禁教をやめ、その後ローマ帝国自身
の国教にするにいたり、ローマ帝国はその後滅びますが、ヨーロッ
パ全体にキリスト教を伝道する基盤になりました。

 他にも、世界の歴史に刻まれた様々な出来事の中に「自分を棄て、
日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」の、イエ
ス・キリストに従った人々がいます。

 けれども、今日の聖書箇所についてこの言葉を別な形で捉えた注
解に出会いました。

 『新共同訳新約聖書注解Ⅰ』日本基督教団出版局刊で、同書の
「ルカによる福音書」を執筆された三好 迪教授による理解です。
9章23節についての記事を引用し、講解します。

 「23節《わたしについて来たい者》とは、イエスとの一時的でな
い永続的人格関係を表し弟子入りを意味する。それは、イエスと同
じ道を歩むべきことを意味する。《自分を棄て》るとか、《十字架
を背負》う、とか、《私に従》うという三つの命令形は別々のこと
を表わすのではなく、同じことを示す。」

 これらを物語的に、しかも、まったく同じ意味で説明しているも
のはマルコ福音書1・16―20、2・14などの弟子たちの召命である。

 イエスに従うと言うことは、イエスをおのれの理想と生き方にす
ることであるから、それはおのれを捨てることになる。

 三好 迪教授は、主イエスの言葉を「わたしについて来たい者」
に一本化しました。これは、大きな意味と、個々の意味を「主イエ
スに従う」中に包み込んだと言えるでしょう。

三好教授 ルカ版のイエスは《日々》自分の十字架を背負え、と言
うのであるから、具体的な十字架の死や殉教死を指すのでなく、日
常生活におけるイエスの教えの実行、相互互恵の原則以上の生き方
(ルカ6・27-36)などを指すのであろう。自分の十字架を背負》う
と言う表現は、ユダヤ教における「律法の軛を負う」という表現に
由来するかもしれない。そして、ここで、律法の軛ではなく、イエ
スの教えを行う際の自己放棄の重荷に置きかえられたのであろう。

 十字架を背負う」とは、十字の印を烙印されること十字架死を遂
げた主に所属することを意味する。自分の生命を失うのはあくまで
イエスのため(《わたしのために命を失う者》)である。」

 三好教授の理解は、イエス・キリストの「神の国の福音が」
「自分の十字架を負う」に重なってくる。これを改めて捉え、展開
すれば、キリスト者が自分や周りの様々なことについて「自分の十
字架を負う」ことが、「神の国の福音」に重なり、主イエスの働き
に力を合わせることにつながります。

2425節の言葉「24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25人は、たと
え全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、
何の得があろうか。

 これは、主イエスの救いを現わしていますが、それだけでなく
「神の国の現実」を直接的に語られています。神の国の現実とは、
この場合、神の国の全体像や、その現実的な在り方ではなく、
「神の国に入る」入り口での現実です。

 主イエスが神の国完成の後、どのような立場で私たち人間、私た
ちキリスト者に対応されるかの鍵がここにハッキリ言われています。
「何だ、神の国の現実って、入るか入れないか、入口のことだけか」
と、簡単に言わないでください。

 神の国に入れるかどうかこそ、「キリスト者にとってだけではな
く、人間全部、一人一人にとって、」最大のポイントです。残念な
がらほとんどの日本人はこの最大ポイントを知りません。

 改めて申し上げますが、現実の神の国は現在、人間世界の歴史を
終りに向かって進んでいます。

この、「現実の歴史で人間一人一人がどのように生き、どの様にイ
エス・キリストに従うか」こそ、第一の、また最大の分かれ目です。 

 25節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼした
り、失ったりしては、何の得があろうか。」どれほど巨大なグロー
バル企業も、歴史から見ればほとんど一瞬的な繁栄にすぎません。

 まして、どれほど優れた個人でも、長生きして最大120歳には届
かない。しかも、その人生の花盛りはせいぜい40~50年がいいと
ころです。

 一方においては、喜びと、活動の場がつづく永遠の「神の御国」
の場があなたを待っている。

 26節「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父
と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」

 教会に加わり、神の国に入ると自分自身で決め、安心しているキ
リスト者への警告がここにあります。

ここでの問題は「イエス・キリストとその『言葉を恥じる者』に
対して」言われています。

 私は第二次世界大戦中に国民学校に入学し、父が牧師で教会に
住んでいましたからいじめられ、キリスト教会の子どもであるこ
とを恥じ、極力隠しましたから、この言葉は痛く分かります。

 そして、いまでも、そのような社会とは全然変わったのに
「一般の人々とは違う」と自覚し、小さくなっている方がいま
す。残念であり、また、もったいないと思います。

 たしかに、キリスト者は日本では1パーセントくらい、ごく少
数派・マイノリティです。けれど、私たちは少数派であっても
小さくなる必要はまったくありません。

 ですから、そのような方々には「伝道活動」への参加をお勧
めします。とても、ラクラクとは行かない働きですからこそ、
ぜひご参加ください。「恥じない者、栄光の者」になりましょ
う。「神の国」の働きです。

 これは、今日の聖書箇所の最後につながっています。
 「27しかし、真にあなた方に私は言う。ここに立つ人々の中
に、神の国を見るまでは死を決してあじあわないところのある
人々がいる。」

 これは、主イエスが初めて「メシア・キリスト」と告白を受
けたばかりの時期です。この時すでに「神の国」は始動し、
神の国が来ると信じる群れが生まれていました。そして、主
イエス・キリストはこのように宣言されました。私たちはい
よいよ確信をもって進みましょう。


  祈り        讃美歌463「わが行く道」