説教「幸いと不幸」2016.7.17

2016717日(日)東田礼拝「神の国連続講解説教21」                  
 説教 「幸いと不幸
             牧師 武井恵一 

聖書 ルカによる福音書62026(,112-113頁)
讃美歌(21)9「わが身に」、358「子羊をば」、
528「あなたの道を」、8837-3「主イエス・キリストよ」

 今日の聖書が示している所は、主イエスが弟子たちと一緒に山を
降り、集まっていた大勢の民衆を癒され、また、大勢の群衆がユダ
ヤ全土とエルサレムから、また、ティルスはシドンの海岸地方から
……と記されています。 

 地元の人もいたでしょうが、むしろ多くは地方から歩いて、主イ
エスの言葉を聞き、あるいは病を癒してもらうために集まっていた。
皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、
すべての人の病気を癒していたからである。」の後です。

 「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。」主イエス
は病を癒すため、かがんでいたので、弟子たちを見るためにしたか
ら見上げられる。病人はそこに横たえられていたのかもしれません。

 大勢の人々の中で、主イエスはかがんだまま弟子たちに声をかけ
られた。

 「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。」
 主イエスがここで、立ち上がって各地から集まっていた民衆に呼
びかけられたのではありません。マタイによ福音書の山上説教も、
集まった群衆に語られたのではなく、弟子たちを身近に集めて話さ
れました。「神の国については、弟子たちがしっかりと理解し、信
じる」。これが第一です。

 もちろん、周りにいる大勢の民衆は主イエスの言葉を聞いていま
す。イエス・キリストが意識してまず弟子たちに話していますが、
周りにいる群衆にも聞こえるように話しているのは明らかです。

 24節からの「富んでいるあなたがた」からは、この場にいる弟
子ではあり得ない。弟子はほとんどが貧しい漁師などです。取税
人だったマタイだけがかなりの資産を蓄えているくらいでしょう。
24節からは、各地から来ている民衆に言われています。

 主イエスは最初に「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた
方のものである。」から語られた。

 ご存じのように、マタイによる福音書では「心の貧しい人々は
幸いである。天の国はその人たちのものである。」と、「心の貧
しい」と言っています。

 「心の貧しい」はギリシア語直訳では「霊において貧しい」で
あり、「生来の、人間本来の『貧しい霊』」を言います。その人
々は「聖霊」によって生きる。

 具体的に言えば、「人間本来の、あなた自身の霊魂ではなく、
神から与えられた聖霊によって生きる人々が『心の貧しい人々』
」です。「天の国」は「神の国」と同じ意味ですが、ここで主が
言われたのは「完成した神の国」ではなく、主イエスの十字架と、
父に棄てられ和解を成し遂げて「この世に来た『神の国』」です。

主イエスによって、完成に向かう途上の「神の国」。これこそ、
主イエス・キリストが私たちに語り、招かれ、また、協力を呼び
かける神の国に他なりません。

 以前、マタイによる福音書で「あなた方は幸いだ」を説教した
時、「まだ、『完成途上にある神の国』」
だという現実をはっき
り言わなかったかも知れません。


 とても大切なことなのに、わたし自身がそこまで思い至ってい
なかったからです。反省してお詫びし、このように言い直します。

 このような間違いをしたものとして、今日の「貧しい人々は、
幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」は大きな現
実の言葉と意識します。

 そして、この言葉が、イエス・キリストご自身の、イエス・キ
リストそのものの本質を、土台を――存在そのものを現わされて
いると知り、改めて驚きました。

 まだ完成へ向かう途中ですけれど、イエス・キリストは紛れも
ない「神の御国の王」です。けれども、
一般的な、あるいは現在
存在する幾つもの王国の王とは「比べ物にならない王」だと私は
理解いたしました。知れば知るほどこの現実に打たれます。

 主イエス・キリストが「金持ちの議員」(ルカ福音書18・18-
30)で議員からの「良い先生、何をすれば永遠の命を受継ぐこと
が出来るでしょうか」という質問に「あなたに欠けているものが
まだ一つある。持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に
分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それ
からわたしに従いなさい」(ルカ福音書18章18-22節)と言われた。


 この質問は三つの福音書にあり、人物はそれぞれ違いますが、
実際にあった出来事だと思います。それは十分あり得るし、それ
ぞれの人物がやがてこの言葉通りに主に従ったと推測できます。

 実際の歴史でイスラエルはローマ帝国に反抗してユダヤ戦争を
起こし、紀元70年壊滅します。イスラエルという国が無くなり、
国民は国外追放され、世界中に散らされます。

 この議員や、若者などは、この戦争でイスラエルが壊滅するま
でのどこかで、実際に気付き、資産を投げ出して主イエスに従っ
たはずです。彼らは、主イエスに従い厳しくても充実した生涯を
送ったと推測致します。主イエスからの聖霊の働きがなされたで
しょう。

 このことに関して、もう一つ触れなければならない現実があり
ます。

 「キリストは、神に身分でありながら、神と等しい者であるこ
とに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分
になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりく
だって、死にいたるまで、それも十字架の死に至るまで従順でし
た。」(フィリピの信徒への手紙2章6―8節)。

 ここに、「世界歴史の中で、最も貧しい者」の現実があります。
 主イエスが言われた第二の言葉は「21今飢えている人々は幸いで
ある、あなたがたは満たされる。」です。

 この言葉も、先の言葉と同じように理解できます。
 「飢えている」とは、食事だけにとどまりません。マタイ福音書
の山上の説教では「悲しむ人々は幸いである。」でした。これは、
 表現されている言葉が違うだけで、内実はほとんど同じです。

 「飢える」悲惨は食糧だけではなく、もっと切実な「飢え」が実
際に数多くあり、多くの人々を苦しめ、死に追いこんでいます。

 「あなた方は満たされる」は、救いの約束、福音の言葉です。
 「今泣いている人々は、幸いである、あなた方は笑うようになる。
」この言葉は弟子たちに言われた言葉ですが。弟子たち自身が「泣
いている」のではないことは、先の「飢えている人々」と同じでし
ょう。弟子たちに「神の国の福音」を指し示してイエス・キリスト
は言われている。

 あなた方が、この「神の国の福音」を今、泣いている人々に告げ
知らせ、あなた方がこれを実現させなさい、と、主は言われている。
あなた方とは、教会にいる私たち弟子です。

 22節「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、
ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
24その日には喜び、踊りなさい。天には大きな報いがある。この人
々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」

 現在、豊橋東田教会の私たち自身が「人々に、一般の人々に憎ま
れ、イエス・キリストのために追い出され、ののしられ、汚名を着せ
られる」ことがあるでしょうか。ほとんどありません。全然ありま
せんと言った方が早いかも知れない。

 これまで私は「現在の日本のキリスト教は目に見えない大きな迫
害を受けている」と言ってきました。

「無視する」「関心を持たない・無関心」の迫害であり、実際に私
たちにこの迫害が迫っていると言える
と指摘してきました。
 けれども、今、この聖書の言葉を読んで「わたしの判断は間違っ
ていたのではないか」と覚えました。
 私たち日本のキリスト者、教会に集う者は、「人々に憎まれると
き、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せら
れる」対象になっていない。

 「日本の教会・キリスト者は全然毒にも薬にもなっていない。む
しろ、そんな人々が極わずかでもいるのは悪いことではない」と、
されているのではないか。

 かつてのキリスト教は「救い」を旗印として掲げ、社会に「キリ
スト教の正義と愛」を実行しようと足尾銅山事件をはじめ、廃娼
運動、孤児や放置された病気の人々、女性蔑視などと取組みました。

 それらは、人々に意識され、社会的な動きにつながり、公害問題や、
児童福祉、病院と社会福祉として公けの活動になっています。

 けれども、そのような中で、公害や児童福祉、貧困対策などは政
治の問題として政治闘争に場をゆずり、日本のキリスト教は政治的
色彩は避ける教会が大多数になりました。かつて賀川豊彦を中心に
してなされた「神の国運動」は消え、忘れられたと言えます。

 「争っても、キリスト教の、主イエス・キリストの主張を社会に
訴えるべきだ」という活動があるでしょうか。肝心の「神の国の福
音」を実現させる動きがどこにありますか。私たちは「神の国の福
音」イエス・キリストの原点に返って、取組みなおす必要を覚えます。

 自殺の名所と言われる場所には「今からでも遅くない! 死ぬのは
待て!考え直して生きなさい」などの看板があります。

「私たちは、本気で考え直すところに来ている」と本気で意識しまし
ょう。

 24節からは主イエスの呼びかけが変わります。
 「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたは
もう慰めを受けている。25 今満腹している人々、あなたがたは、不
幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、
不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。」

 この言葉は、誰に向かって呼びかけているのですか。先ほどは、
「まず弟子たちに向けてと言い。24節以降は各地から来た群衆にむか
って」と先ほど言いましたが、今、それを撤回します。

 そうではなかった。この呼びかけはやはり弟子たちに向かってして
います。

 けれど、ここにいる十二弟子に直接言っているのではない。弟子は
弟子でも、「この聖書の言葉を読んでいる21世紀の日本のキリスト者
に『この様に言いなさい』。『イエス・キリストの救い、神の国の救
い』を、『今富んでいる人々に向かって言いなさい』と言われている。

 次の、主イエス・キリストの言葉が、それを明らかにしていると私
は言いましょう。

 26節「26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 今、日本のキリスト者は「すべての人にほめられようとして」いな
いでしょうか。あるキリスト者グループは左翼的政治団体に、ある人
々は災害援助・復旧活動の公的・私的活動に。それは善いことです。
一般の人々はこれを「偽善」とは言わないでしょう。正面から誉める
でしょう。

 けれども、この日本の教会を見て、主イエス・キリストは何と言わ
れるか。

 「この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
「神さまから与えられ、人々に伝えるべき言葉を」話さず。聞いて気
持ちの良いことを話して喜ばれていた。

 日本のキリスト教に「偽預言者たちに同じことをした」先達がいた
かどうか知りません。また、それを詮索するべきだとは思いません。

 それは、父・子・聖霊の三位一体の主がご存知です。私たちが取上
げなくてもよい。

 けれど、今、現在こそまさしくこの聖書箇所でイエス・キリストが
富んだ人々に、飢えている人々に呼びかけなさいと指摘されているこ
とです。

 特に、今の在り方を当たり前とし、「三位一体の神にまったく目を
向けようとしない富める人々
」に私たちははっきり「この世には、死
んでから直面する滅亡がある事実
」と、人々が生きている現在・現実
の中で、与えられる「
神の国の救い」を伝え、偽善的な在り方から、
実際に救いに導く責任があります。

   祈り    讃美歌528「あなたの道を」