説教「弟子を派遣する」2016.7.3

201673日(日)東田礼拝 「神の国連続講解説教19」              説 教「弟子を派遣する
              牧師 武井恵一 

聖書 ルカによる福音書191127,121頁)
讃美歌(21)7「つくり主を」、356「ほめたたえよ」,
566「報いを望まで」、728837-1「いと高き神に」

 今日の神の国のメッセージは、来たるべ神の国ではなく、この時、主イエスご自身が弟子たちを「神の国を宣べ伝え病人をいやすために遣わされる」聖書に記されている記事です。
 この出来事を「神の国」のこととして採り上げるのは、主イエス・キリストが十字架に架けられ、父なる神に見捨てられて――言い換えれば、神様と神様に逆らっていた人間との和解を成し遂げられた時、神の国が私たち人間世界にもたらされた。「神の国が実際にこの人間世界に到来している」ことによります。
 でも、私たちはそれが中々分らず、信じられずに毎日を送っている現実があります。
 私自身、「神の国が、私たちの日本にももたらされている。現に教会が多くの町々に立ち、礼拝が行われている」のを、良く知りながら、その現実が見えない。
 私たち自身、わたし自身が「神の国のを完成へ進めるために何をしたらよいか」が、ピンとこない。「伝道こそ、その為の働き」とは、知っていますが、現状は皆様が知っているとおりです。 
 「神の国の福音伝道」。教会で、礼拝で語り伝えることが、何よりも第一と知っていますが、一方で
「何か、神の御国について、なすべきことが他にあるのではないか」、といつも考えます。
 あるいは、皆様も同じように考え、求めつつ、「2月から始まった『神の国連続説教』も、似たようなもので、やっぱり、実際には分らない」と思われているかも知れません。
 私は、内緒にしておくべきかも知れませんが、主イエスから「言いなさい!」と強く背中を押されている思いがあるので、アーメン。ハッキリ言いますが。2月から連続説教に取組んできて、既に色々与えられ始めていると自覚しています。
 ある人から言われたことですが、「牧師は、自分だけわかって喜んでいるところがある」。これは、ガツンと来ましたが、ふりかえって「たしかに、そう言われて当然なところがある」と、自覚させられる現実があります。
 「礼拝メッセージ」で色々関連する聖書箇所など話すので中心がボケてしまう。与えられたことを何とか伝えようとして、えって分りにくくなる。
 「何度か、繰り返して話せばいい」という牧師もいます。でも、既に分かったことを繰り返して何度も聞くのはアリガタ迷惑、自分の経験からそう思っています。
 また、ある箇所で「ここには、大切のことがある」と感じたことをあまり強調すると、その大切なことが伝わらないで、自己主張をしていると受け取られることがあるでしょう。
 ここで、このように話しているのは、今日の箇所にそのような、誤解を招きかねない――大切なところがあるからです。
 このことを下敷きにして聞いて下さい。
 「9・1イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。」
 これは凄いことです。主イエスご自身がこのような力と権能を持ち、発揮されていることは、新約聖書全体で知っています。
 この、主イエスの言葉は重要ですから、ギリシア語直訳を引用します。
 「9・1 そして、十二人を召し集め、彼らにすべての悪霊(複)を制し、また、病気をいやす力と権威を彼は与えた。」
 新共同訳とほとんど同じですが、この言葉の方が具体的に私に届きます。「悪霊(複)を制する」。
 「また、病気を癒す力と権威を彼は与えた」。それだけではありません。次の2節は「そして、神の国を宣べ伝え、病人(複)をいやすために彼らを遣わした。」です。主イエスの弟子たちへの期待が見えます。
 ルカ記者は「神の国を宣べ伝え」と「病人(複)を癒すために彼らを遣わした」と、「神の国福音と病人の癒し」を並べています。
 弟子たちが「病を癒す」働きを実際に行った。それは「神の国の徴だった」。
 十二人の弟子たちがどのように活動し、悪霊を払い、人々をいやしたかは報告されていません。けれど、このあと、10章では「七十二人を派遣する」の記事があり、こちらでは10章17節から24節までその報告と、続いて「喜びに溢れる」の記事があります。
 17節から読んでみましょう。
 「17七十二人は喜んで帰ってきて、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」18イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から墜ちてくるのを見ていた。19蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなた方に授けた。だから、あなた方に害を加えるものは何一つない。」
 弟子たちは「悪霊を制し、病を癒す」働きを報告していますが「悪霊さえも」と、病の癒しよりも悪霊を制する癒しの方が重かったことを主イエスに告げています。
 この記事によって、注目される言葉があります。ルカ福音書11章20節のベルゼブル論争で言われた主
イエスの言葉「20しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
 ここで、主イエスは「悪霊を追い出す権威」が実行されるのは「神の国が、そこに来ていることだ」と言われています。
 この言葉を、主イエスに派遣された弟子たちの働きに当てはめますと、「弟子たちが悪霊を制し、屈服させた出来事は、神の国がそこに来ていることを表わしている」ことを示された。
 主イエス・キリストご自身でなく、権威を受けた弟子たちが、明らかにこれを実行した。
 そこに、「神の国」の現実があった。
 「奇跡を伝道や宣教の手段として用いなかったとされる主イエス」は、ここで「手段として」ではなく、「神の国の働き」として「弟子たちに実行させ」られた。
 ここに記されている現実は、日本での行き詰った状況に新しい動きを生むかもしれません。
 ただし、安易に「癒し」を求めるのは問題でしょう。マルコによる福音書には、主イエスご自身が故郷ナザレで驚かれた記事があります。
 マルコ福音書6章3節。最初はナザレの人々が言っている言葉「3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々の一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまづいた。
 4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、その他は何も奇跡を行うことはおできにならなかった。6そして、人々の不信仰に驚かれた。」と記されている。
 主イエスによる癒しでさえ「信じる心」がなければ癒されない。この記事はネガティブな意味で価値があります。
 この記事を「信仰・信頼といやし」と受けとめると、「いやしを疑う」、「癒しの奇跡を受けるのは厭だ、と心に思い、口に出す」人の場合、癒しができなくてもむしろ当たり前でしょう。
 ナザレの人々の反応は「人間の思い込み、母や兄弟や姉妹まで『すっかり知っている』確信」が、どれだけ根強いか」が示されています。
 これは、現代社会で、主イエス・キリストの弟子とされ、権威を与えられている者が、キリスト教に背を向ける人々に手も足も出ないでいる状況に一つの新しいポイントを与えられた、と言えるかも知れません。
 現代の日本社会は病んでいると見られます。
 様々な精神的病が人間を蝕み、主に薬物によって治療を受けていますが、薬物によって全快することはほとんどない。発作や症状そのものは抑えられ、改善されますが、人間を蝕み、精神状態を歪めている病、虚無的、意欲放棄的な状態、は様々な人間を人間として認めない社会の様々な落とし穴や、圧迫によって悪化し、汚染し、拡大しています。
 わたしたちキリスト者はこの実情を「悪によって起っている」と認めるべきでしょう。
 これを現実のこととして認めても、今、具体的に出来ることはありません。
 けれど、まず、現実のこととして「認め」、対応を求め、願うことから始める必要があると覚えます。
 主イエスが弟子たちを派遣される時に言われた言葉はこれだけではありません。
 「9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」
 この弟子たちへの指示は現実を無視していると読めます。弟子たちにはそれぞれ身内や周りの者がいたでしょう。主イエスはそれを承知で無茶な指示を通した。
 杖は、歩くときの支えですが、場合によっては悪者と戦う武器になります。袋は風呂敷包みとか、小さなバッグのようなもので。日常の必需品が入れられている。これも、持たないように言われ、更に「パンと金も持ってはならない。」と命じられ「下着も二枚は持って行くな」と言われる。
 一方、72人の弟子を派遣する時はもう少し丁寧に言われているので読みます。10章3節、125頁。
 「行きなさい。わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ、財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にもあいさつをするな。どこかの家に入ったら、まず、この家に平和があるようにと言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたが願う平和はその人にとどまる。」
 主イエスは見知らぬ人々のことも、危険も良く分かっておられる。
 主は父なる神さまとの信頼があり、何事があっても弟子たちを守る心と力があります。
 「9:4 どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。」
 わざわざ指示することでも……と思われますが、弟子たちが病気を癒しをした家に泊まるよう招かれたり、神の国の話を聞いて呼ばれたりなど、実際に起ること、また、そこで、昨夜泊まって世話になった人との関係、翌日も今日の家に滞在できるかどうか、など現実的に考えると、この指示は的を射ています。
 行く先々は、顔も名前も知らない人々、生活も性格も分らないまま、新しい関係に加わるのですから、主イエスの指示に従うのが一番楽で、安心できます。
 「9・5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
 主イエス・キリストの名前と、癒しをされた出来事は、弟子たちが遣わされるどの町、どの村にも聞こえていたはずです。だから、主イエスの弟子と知りつつ迎え入れない町はあまりなかったと思われます。
 けれども、喜んで迎えようとしない町や村もあった。
 私たちの周りにある問題も、ここにあると見られます。大きな課題がわたしたちの前にあり、この問題は実際に深刻です。
 この問題が私たちに課題として立ちはだかる現在、私たちはこの課題に向かって進みましょう。
 これに向かうのは、聖霊の力もありますが、また、先に連続説教の中で――エルサレム神殿で祭司長たちが「イエスを殺そうとした場面で、彼らがとどまらざるを得なかった『権威』主イエスを信じる民衆の『権威』が関係」しています。私たちも「信じる者」としての「権威」を身にまとうと、目に見えない権威で働きを進められると信じます。私たちはキリストの喜びをもたらすのです。
   祈り        讃美歌566「報いを望まで」