坂の途中から 2017.1.1 補足

坂の途中から 2017. 1・1 (礼拝説教補足)

1月1日礼拝説教「喜びにあふれる」は、分りにくいところが色々あるかと思います。そのためにこのコラムをもちい、あらかじめ補足します。教会員の方々は、すでに主イエスが「全能の父なる神の独り子」であると知っておられますが、新約聖書以前を記している旧約聖書では「父なる神とその独り子イエス」はまったく語られていません。
 イザヤの預言でも「主の僕」です。三位一体の神は「主なる神」です。

主イエスは「神に遣わされた者として」、人間世界に「人間」として生まれ、信じる人々から「メシア」とされた。主イエスを「神の子」としたのは悪魔(荒野の試練)、悪霊たち。あとは、捕らえられ最高法院で「お前は神の子か」と尋問した議員。ルカ福音書ではこれだけです。

今日の箇所でも直接記されずに、弟子たちが悪霊払いをした時「お名前を使うと」で、悪霊が「いと高き神の子イエス」(ルカ8・28)と言い、これを弟子が聞いて主に報告した事によります。「神の子」は、主イエスにとってこの上ない名であり、弟子たちのこの報告は「人間により、ここで始めて言われた言葉」、主イエスが喜びにあふれた言葉です。

22節主イエスが「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と言われたことは、神のすべての権能・力・ご計画すべてが主に任せられている。今は「遣わされた者」にとどまらず、父のすべてが主イエスに任せられ、イエス・キリストが主体として行うことを顕されている。

23節「イエスは弟子たちの方を振り向いて弟子たちだけに言われた」と言うのは、初めてのことです。私たちはこの言葉を「現在、キリスト教会で主イエスの言葉を聞き、受けとめているものに」と現実にします。そのあと主が「あなた方が見ているもの」と言われているのは、メシアが来て、人間世界で救いの活動をする有様、更にはメシア個人だけではなく、それに従って弟子たちが「救い=神の国の喜び」を世界中にひろげることをも指していると言える。多くの預言者や王はそれを見たいと切望していたのを主なる神・主イエスはよく知っておられました。

今日採り上げた聖書箇所は、どちらかと言えば主の日常的なひとこまと読み過ごしてしまうところかもしれませんが、むしろ主イエスご自身にとって大切な、新しいステージに向かう幕間のような、意味を持つと ころとも見られます。その意味で、私たち自身もこの場面を心に留、主に従って歩みたいと思います。(武井惠一)